先人たちがつくってきた町〔5775〕2019/02/06
2019年2月6日(水)小雨
昨日もご紹介したお稲荷さん。玉垣に書かれた鬼頭良之助さんの名前。鬼龍院花子の生涯で仲代達矢演じる鬼龍院政五郎のモデルとされる、土佐の侠客。大親分。鏡川沿いのフランクチャムピオン記念碑を建てたのでも有名だけども、潮江天満宮の巨大な百度石、九反田地蔵尊の百度石、薫的神社の百度石など、各所でその名前を見ることができる、重要人物。活躍したのは大正から昭和にかけて。
ただの親分ではない。大正七年の米騒動の際には、地元の財閥宇田家にお金を出させて無料で米を配る、ということをやって未然に高知での米騒動を防いでいるし、社会労働運動で頑張っていた安芸盛さんと意気投合して労働組合を結成、大正9年に第一回メーデーをやったりしてるのが、鬼頭良之助さん。やはり只者ではない。
この東に広がる稲荷新地でも、もちろん顔役であったことだろう。この玉垣に名前があるのは、当然っちゃあ、当然かも知れません。
江戸時代は、ここは下知村に属しました。昨日も紹介した平凡社の「高知県の地名」によりますれば、古くは潮田村。浦戸湾の浅瀬、干潟であった場所。そこに、元和二年(1616年)、二代藩主忠義公の命で潮江村庄屋山崎弥右衛門さんが、広大な新田を開発したんだそう。770石余りというから、広い。今も「弥右衛門の丸」という地名に、その名前が残る山崎さん。
元和二年というと、家康が亡くなる年。そんな早い時期から、社会の充実を目指す取り組みは進んでいたのか。
その元和年間に、下知村では、十郎兵衛潮田、藤右衛門潮田、茂右衛門潮田、唐人潮田、上知寄潮田ができた、と南路志に書いてあるという。開発を担当した人物の名前が冠せられてえいるんだろうから、とにかく、民間の力を最大限活用していたことがよくわかる、藩政期。唐人潮田は、元親が朝鮮から連行してきた人たちの子孫だろうか。
当然、開発した担当者は利権に預かることになる。そうやって特権利権を与えながら、公的な資金や労力を使わずにインフラ整備を行っていくのは、小さな政府であった江戸時代各藩の常套手段。うまいこと、やってます。
そうそう。宝永町の西側の新町も、寛永十三年(1636年)に春野芳原村の島崎藤右衛門が開発した、という話を以前も書いたこと、あると思う。上の藤右衛門潮田も、その藤右衛門なんだろうか。かなりの財力を持ってたのかも知れません。どんな人だったんだろう。
かように。
この町は、たくさんの先人たちの努力、頑張りでできあがってきた、町。僕らも、努力し、頑張って、後世の人たちに良い町、良い社会を残していかんといけません。
未明のお稲荷さんが、色んなことを、教えてくれる。