稲荷新地にのこるもの〔5774〕2019/02/05
2019年2月5日(火)晴れ
昨年の日記を見ると、昨年2月5日の朝は氷点下3℃だって。今朝とは大違い。今朝、何度なんでしょうかね。そんなに寒くはない、朝。
午前4時半前の、稲荷新地。明治大正から昭和初期にかけて、高知の城下では上町の玉水新地と並ぶ歓楽街として栄えた稲荷新地は、この土佐稲荷神社を西端に、東へと伸びておりました。玉水新地が上(かみ)の新地、稲荷新地が下(しも)の新地ね。
この写真ではわかりにくいけど、道は、ここから向こうへ、つまり北側へと下り坂。この新地は、下知村を守る堤防の役目もあったんだと思う。下知村は海抜0m地帯なので。
この鏡川河口北岸は、藩政期は、家もほとんどない櫨並木。で、水の勢いを抑える「ハネ」が3ヶ所突き出していたんだそう。その3つの「ハネ」は、今の中の島の先の方、棒堤ができてから乗船場となる。皆山集によりますれば、一番上流、西の「ハネ」からは藩主が、真ん中の「ハネ」からは臣下が、一番下流の「ハネ」からは罪人たちが乗った、とのこと。う~ん。極端やね。中間層はどうなったんだ?
新地というくらいで、その稲荷新地は、明治になってから新しい政権によって整備されたものと思うでしょ?
ところが、違いました。
幕末。慶応二年(1866年)。池村の慶蔵という人物が、藩へ宅地造成の許可を願い出る。で、明治元年(1868年)に、藩直営の事業として堤防の拡幅と宅地造成が行われ、このお稲荷さんにちなんで稲荷新地と呼ばれるようになった、と、平凡社「高知県の地名」に書いてあります。なるほど。土佐藩としての最後の大規模インフラ整備事業だったのかも知れない、稲荷新地造成事業か。
その後、有名な陽暉楼の巨大な建物を中心に、遊郭、料亭、芝居小屋。明治44年には土電の電車の「新地線」が知寄町二丁目から引き込まれ、知寄町二丁目は「新地通り」という電停になったことは、以前にも書きました。
この前には巡航船も発着。馬場孤蝶の日記にもあるように、湾内の船の往来は賑やかで、人の動きは今考えるよりもすっとダイナミックだった、明治大正昭和初期。馬場孤蝶さん、土佐へ帰郷した際、しょっちゅう、新地線や湾内の船を利用してます。まっ昼間から、種崎までここから船に乗って行って、飲む。わざわざ長浜から芸者を呼んで。なんと夜の9時までやっといて解散。屋形船でゆっくりと浦戸湾や月を楽しみながら、稲荷新地へ帰る。で、夜11時頃に、新地から電車に乗って西唐人町の宿へ帰る。なんという贅沢。さすがロマン派。
夜11時に、まだ、新地から電車が出ていたという賑やかさ。そんな時代だったのか。
今は、目の前に大きな堤防。昭和45年の台風10号の高潮を受けて作られた堤防が、新地前の風情を壊滅させてしまって、もう、何十年。その堤防が、津波対策で更に巨大なものになり、今はもう、ここにはかつての風景は残ってません。
このお稲荷さんの玉垣に書かれた料亭遊郭の名前や、当時の実力者で「鬼龍院花子の生涯」の鬼龍院政五郎のモデルとなった鬼頭良之助さんの名前だけが、往時を偲ばせてくれる。稲荷新地。