ゑびしば、新京橋、賃取り橋〔5749〕2019/01/11
2019年1月11日(金)薄曇り
今朝はここを歩いて与力町。昨夜は、車を与力町に停めてたので。
京町の南側。はりまや橋の西。向こうの明るいところがはりまや橋。赤いレプリカの橋が架かっているはりまや橋。
ここはかつて、堀川だった。昭和40年過ぎまで。それから埋め立てられ、こんな感じの親水公園。この親水公園の一角に鎮座ましますのが恵比寿さん。この北にある京町の、商売繁盛を願う神様だ。江戸時代から京町の商売人に尊崇されてきた、恵比寿さん。キレイにお正月仕様でお祀りされてました。
元々京町は、山内一豊が城下町を建設した際、京から呉服商である筒井宗泉が移住してきて山内家御用達の呉服商人となったことに始まると言われてます。だから京町。それまでは国沢城の北に広がる原っぱで、「城畑」という地名だったらしい。「城畑」から「京町」へ。なかなか雅な変遷を遂げたもんですな。
最初は、この堀川北岸には堤があって、その北の片側町だった、京町。17世紀中頃、その堤は取っ払われて両側町になった、京町。水害への備えよりも、街の発展が優先されたのでありましょうか。結果的に、長い目でみても、そっち方が正解でありました。都市計画は複雑にして難しい。
で、よさこいのチームに「ゑびすしばてん連」というのがあります。有名なチームね。これは京町と新京橋の商店街連合チームで、「ゑびす」は、この京町の恵比寿さんにちなんでます。「しばてん」はよくわからんけど、新京橋が堀に架かっていたので、その堀川にしばてんが出没したんでしょうかね。知らんけど。
そうそう。新京橋という橋が架けられたのは明治になってから。明治5年のことね。大丸の南西から北へ、ブラタモリでやった土橋を経由して大川(江ノ口川)につながる南北のお堀がありました。少なくとも、昭和25年過ぎまでは、大丸の西から「つちばし」界隈は川だった。
その堀で、東の町会所(現在の大丸)から西の郭中、堀詰方面へ渡る橋が架けられたのが、明治5年という訳だ。それまでは、町会所から堀詰へ行くには、北の土橋まで迂回せんといけませんでした。
その、今の新京橋商店街の南出口のところに架けられたのが、新京橋。京町から郭中へ渡る新しい橋だから、新京橋だったんでしょうかね。
で、その新京橋は、なんと私橋だった。南新町の吉田長太郎さんという人物が官許を得て架けた私橋、新京橋。お金を徴収する小屋が、橋にあったと言います。いくら取ってたんでしょうかね。土橋がそんなに遠くないので、安かったと思う。安くしたら通行量、かなり多かっただろうし。高かったら、みんな土橋へ迂回しただろうし。
明治22年に、要法寺町の竹崎さんと唐人町の井上さんが、187円30銭で経営権を取得した、とあります。この辺の情報、ぜんぶ、平凡社の「高知県の地名」出典ですきんね。この本、すごい。
で、せっかく187円30銭で取得したけど、その6年後の明治28年には県道に組み込まれて往来自由になった、とのこと。元、取れたんでしょうか。井上さんと竹崎さん。
この時代、民間人が橋を架けて賃料を徴収する、というのはよく行われてました。小さな政府の民間活用。思い浮かべるのは潮江橋。明治の頃、潮江の大地主熊沢馬太郎さんと大坂金太郎さんが、今の潮江橋の辺りに私財で橋を架け、賃取り橋にしていた、という話、以前も書きました。明治36年に行政によって潮江橋が架けられると、それに伴って取り壊されていた天神橋のところへ仮橋を移設して再び賃取り橋として営業、昭和2年まで続けられた、という話ね。
仮設とは言え、渡し船よりはずっと便利。とても役に立った橋なんだと思います。
その馬太郎さんのご子孫の熊沢さんに、今、親しくさせて頂いてます。山内家伝来とか牧野博士が採取分類したとかの伝統在来野菜に、今、熱心に取り組んでおられます。中でも奇跡の復活を遂げた「潮江菜」は、今、非常に大きな注目を集めてます。
熊沢さんちは、昔から、すごいし、いまもすごいのである。