高見山の風景とべき乗則〔5744〕2019/01/06
2019年1月6日(日)薄曇り
今年最初の日曜日。朝、南嶺を走ってきました。ウルトラスーパーダイエットスペシャル敢行中の僕としましては、お正月の飲食分、なんとかせんといかんという危機感ね。
家から鏡川沿いを走り筆山。そして高見山を一気に駆け上がる。うん。身体が軽いぞ。こないだまでとは違う僕の身体。ちょっと軽くなったような気がします。気のせいかも知れんけど。
ここは高見山。てっぺんに「標高一六三米」と書かれた標柱があるので、標高163m。一気に駆け上がると、結構心臓バクバクで苦し心地良い。そんな高見山の山頂で撮影してみました。僕らにとってこの山は「高見山」。それ以外の何ものでもないけど、本当は「皿ヶ峰」らしくて、てっぺんの標柱にも「皿ヶ峰」などと書いてある。なんででしょうかね。
高見山は、焼ける。定期的に山火事になって、焼ける。このにっこりでも、その山火事のこと、書いてきた。
一番最初は2004年2月ね。この時のにっこりは、なにかに迎合して「皿ヶ峰」と書いているのがちょっとけしからん。この時は、ヘリコプターで水かけたりしてました。
その次は2009年のお正月だ。夜でございました。またか、てな感じの静かな消火活動。
で、8年後。2017年3月の火事。8年もの間、焼けんかった高見山。この時の高見山の火事は、僕が記憶する中でも一番焼けた、山火事。三原兎弥太さんのお墓の説明板も焼け落ちてしまった。
それから2年。草はかなり生い茂ってきた。でも、2年前の焼け焦げた木の枝とか、まだ散見できる風景。
思い出すのが「歴史はべき乗則で動く」。
ひまわり文庫所蔵のこの本、実に興味深くて示唆に富んでる。今、僕らが生きているこの世界の、否定のしようがない法則について書かれている。
地震。大量絶滅。そして大戦争や、株価。人間の恣意的行動が引き起こすものですら、べき乗則に則っている、という話ね。つまり、地震などの発生率、頻度は、その規模のべき乗に反比例する、という基本的な話だったと思う。ほんのちょっとに、なんということにないきっかけで。例えば偶然のアクシデントで、オーストリアの皇太子が殺されるとか。今、手元にその本がないので記憶で書いてるけど。
大規模な山火事の頻度も、その規模に反比例する、と書かれてた。アメリカで数年前に発生した、すさまじいまでの大規模な山火事。
それは、今までになかったような規模のもの。定期的に自然発生していた山火事を、色んな対策を施すことによって押さえ込んできた。それにより、実は、山は非常に大きな緊張状態になっていたのではないか。そしてほんの些細なキッカケで、とんでもない規模の山火事になってしまった。そんな話だったと思う。
去年のアメリカの大規模山火事については、その原因とかなんとか、よう知らんけど、そんな角度からの論説は、まだ見てない。見てないけど、本当の地球科学的原因は、そんなところにあるような気がします。
2017年の、8年振りの高見山の山火事が、今までにないくらいの規模で燃えたのは、その8年という歳月が影響しているのではないか、と、思った訳です。
たぶん高見山、もっと短い周期で定期的に山火事が発生してきている。でも怪我人が出たとかの話は、聞いたことがない。高見山のお墓の石(古いのは砂岩ね)は、幾度も幾度もの度重なる火事で、黒ずんでいるけど、それはそれ。そうしたものだと、昔から扱われてきたんだと思う。僕なんかが無責任なこと言われんけど、高見山のてっぺんにお家の墓所があるKさんは、こないだ、そろそろ焼けてくれんろうか、とおっしゃっておられました。昔から、定期的に焼けることで今の状態が保たれてきた、高見山だから。
対策とかが取られて、山火事が発生せんなった高見山は、恐ろしい。樹々が生い茂る。そこにもし、ほんの些細なきっかけで山火事が起きたら、今までの高見山の山火事とは似ても似つかない大規模山なものとなり、麓の街も含めて大きな災害となりかねないのではないか。
地震のこともそうだけども、僕らは、今一度、世界はべき乗則で動いているという「事実」を認識して対処していかんといかんのではないか、と思うのでありました。
この、見晴らしの良い高見山は、山火事とともに、歴史を刻んできました。