初てぴ〔5743〕2019/01/05
2019年1月5日(土)晴れ
初てぴ。
昨年完成した立派な図書館「オーテピア」は、新年は今日から開いてます。そんな訳で今年の「初てぴ」。図書館に籠って、資料作成のお仕事だ。
今日は今年最初の土曜日ということで、第一第三第五土曜の朝恒例、会社の近所の清掃活動をやってきました。ああ。気持ちがいい。歩きまわってますと、その地形が足から身体に入ってくる感じ。昔の物部川の流れや、流路の間の微高地などがよくわかる。工場のある場所は微高地で、その西に古い流路があり、その西の微高地には昔からの集落。その集落界隈の水路とか、掃除してきました。
物部川流域の地形。
ここは今朝の田村。南国市田村。高知空港滑走路の北西端。ちょっとした公園になってて、そこの見晴台の上から、東京行きJALの離陸を眺めました。この公園は、高知空港滑走路拡張に伴って発掘された田村遺跡群のご紹介をする公園にもなってます。
田村遺跡。
弥生時代前期から後期にかけての数百年間、ずうっと存在し続けた、四国の太平洋側最大の集落ね。長い長い年月にわたって集落が営まれてきたので、発掘された竪穴式住居の数では、全国トップクラスと言います。土佐は、弥生時代には全国的にもかなり栄えていたのかどうなのか。
で、何故、稲作文化が伝わってきてから、人々はここ田村に集住するようになったのか。
それは、地理院地図を見ると理解できるような気がする。気がします。
地理院地図の「治水地形分類図」がこれね。水色の横縞になってるところが旧河道。かつて、物部川が流れていたと思われる場所。
この扇状地のあちこちに旧流路が存在し、幾度も流れを変えてきたことがわかる、物部川。
でも、ここは、自然堤防となった微高地。本流がここを流れたことは、ない。そう。大河に寄り添う微高地が、ここ田村なんですね。十字の場所に立って撮影したのが今朝の写真。
川に近く、田んぼを作るのに必要な水路は、縦横に走っていた。でも、少々の氾濫でも浸からないような微高地。「田村」という地名こそ、ここが稲作に適した土地であったことを教えてくれるではないか。
弥生時代が終わり古墳時代になると、田村の竪穴式住居群は消える。そして、現在の国分寺から東側にかけて、竪穴式住居群が展開するように、なる。土佐の人口集住地が、ここから国分、比江界隈へと移った訳だ。その理由はわからない。
ここが、大洪水か何かで流されてしまう弱点を持っていたからなのか。物部川の水運よりも、国分川の水運の方が便利だったからなのか。
もし、人口集住地がここから移動しなかったら。この場所に土佐の国庁が置かれていたのだと思う。中世、土佐国守護であった細川氏は、この地に守護代屋敷を置き、土佐を統治しました。だから、地政学的には、ここはやはり重要な場所であったのだ。
消えた竪穴式住居群。復活した環濠集落と守護代屋敷。中世、物部川本流は、この少し東だった。河口はたぶん現在の切戸で、そこの近くには入江があり、港となっていたのだと思う。海運を重視し、瀬戸内海の大内氏に対抗していた細川氏が、太平洋とつながるこの地に居館を置いたのは、それなりの理由がありそうです。
戦国期になると、平野の真ん中のここは、防御に適しておらず、いつしか土佐の中心ではなくなっていった、田村。
時代は遷る。そこが栄えるには、栄えるだけの理由がありました。