大鋸屋橋、高橋、高い橋、高い梯子〔5734〕2018/12/27
2018年12月27日(木)晴れ!
今朝はまだそんなに寒くないけど、明日にかけて冷え込んでいく予報。西日本太平洋側でも雪になるかも知れんと、今朝の予報でやってました。いよいよ冬、本番。そして今年も残すところ、今日を入れて5日。なんとなく忙しない、年の瀬。
でも、以前ほどではなくなりました。僕らが仕事を始めた頃は、すごかった。大橋通りなんか、天満宮の輪抜け様かと思うような雑踏で、歩くのにも苦労するくらいだった。こないだ東京へ行ったとき、渋谷のセンター街を歩いたけど、あんな感じ。年末の大橋通りは。比べてしまうのも変だけど。
そして凄まじい賑わいから一夜明け、元旦になると、商店街はシーンっと静まり返っていた。道を歩くのは着飾った初詣の人たちばかり。開いているお店は一軒もなし。静まり返った商店街。
弊社の工場も、元旦は受乳と、タンクに入りきらない生乳を粉乳にする係だけが出勤で、あとは静かなものだった。今は昔。
元旦から普通にお店が開き、年末も年始もそんなに変わらない風景になったのはいつの頃からか。平成になった頃には、もう、そんなことが始まってました。
ここは今朝、5時前の九反田。菜園場から南へいった、大鋸屋橋の上から西方向を撮影。左手の巨大な建物がかるぽーと。この写真ではわからんけど、肉眼でこの堀川を見ると、すごい。モワモワと、川底から巻き上げられた泥がどんどんと上流へと上がってゆく。台風のときの雲みたいに。何か大きな魚でもがしでかしてるのかと思って見てたけど、違いました。潮が満ちてゆく、その流れに、堀川川底のヘドロが巻き上げられて上流へと流されていってるんだ。意外なほどにダイナミックな風景が展開されてました。
このかるぽーとの場所には、昭和42年まで、高知市中央卸売市場があった。ここが市場だった頃、この年末の賑わいは大変なものだったと思う。弘化台より狭いのに、取扱量は段違いに多かった、市場。人。車。そして舟が、ここにひしめきあっていた、そんな時代。
この大鋸屋橋が架けられたのは昭和35年。だから、昭和42年まで、この橋の下をたくさんの生鮮品を積んだ舟や下肥を満載した舟が往来していた。そんな大鋸屋橋。
藩政期の絵図を見ると、この橋、「高橋」と書かれています。そう。高橋。
堀川最下流に架かる橋。夥しい舟がくぐり抜けていく橋、ということで、桁高の高い橋が架けられたんだと思います。だから、高橋。
全国の高橋さんのルーツも、きっと、高い橋のあった場所に関係しているに違いないと思って少し調べてみたら、話はそんなに単純ではなかった。
NHKの「日本人のおなまえ!」という番組、ご存知ですかね。日本人の姓について、その由来とか分布とかを解き明かしていくバラエティ。あの番組で解説している森岡先生。森岡くん。中高校の、同級生なんですね。同級生の活躍を見ると、嬉しくなります。
で、ネットで「高橋」さんのルーツを見てみますれば、
農民は「農耕の神は普段は天の上にいる」と考え、神は祖先の霊魂の集まりで、太陽の光や雨の恵みをもたらすとした。天の神は祭礼の日には天から地に続く高い梯子を使って地上に降り立って人々のもてなしをうける。この「高い梯子」が「高梯子」となり「たかはし」になり「高橋」の漢字をあてた。
てなことが書いてました。なかなか深いぞ。近所の「高い橋」由来ではないかも知れない。でも、近所の高い橋が由来の高橋さんも存在しますよね。知らんけど。今度、森岡くんに尋ねてみよう。