国沢は萱の中〔5727〕2018/12/20
2018年12月20日(木)薄曇り
12月20日か。今年もあと残りわずか。押し迫って参りました。今日の午前中は調べ物と資料作成で、テピってます。オーテピアね。今年できた快適な図書館の「研究個室」というのに籠って仕事してます。オーテピアを利用することを「テピる」と言うのは、この斜向かいの女子高生が始めた物言いにかありません。気に入ったので、僕はいつも使っており、今日もテピってます。
もちろんここには資料もたくさんあるし、快適な個室もあるし、便利極まりないのですが、あと重要な機能に「データベース」があります。各新聞の過去記事を検索したりもできるし、仕事で使えるマーケティングデータや企業情報データベースなど、普通に使おうとしたら有料で結構なお値段がするようなものが、無料で使えます。プリントアウトは有料で、1枚10円。
そんな訳で、高知県人は仕事にも活用したいオーテピア。
ここへ来る途中に撮影したのが、八百屋町、要法寺町。はりまや橋交差点の南西。境町の南。この空き地には、こないだまで電気設備会社さんがありましたが、新社屋が完成して引っ越していきました。
何故、こんなところの写真かと申しますれば、この界隈に戦国期、国沢城という城があり、国沢氏が拠点としていたから。「国沢」という名称からもわかるように、湿地帯だった。南に潮江川、東は海。潮江川(鏡川)が蛇行して、それによって堆積した小高い丘みたいなのがあったのかも知れない。
国沢氏は、色んな説があるけど、どうやら長宗我部一族から分かれた名族らしい。長宗我部19代兼序の弟が、その始祖とされてますね。元親のじいちゃんの、弟か。
湿地帯、湿原を干拓し、本拠としたんでしょうかね。昭和20年7月4日の高知大空襲まで、その地に竹林寺出張所があり、大きな大きな銀杏が立っていたと言います。国沢氏の名残、痕跡かも知れません。
筆山東斜面に、興味深い墓石があるそうです。萱中二郎兵衛両親兄弟招魂碑と刻まれ、裏面に石田三成革姓名号萱中三郎兵衛とある。石田三成が関ヶ原で敗れた後、その娘が乳母に抱かれて土佐へ落ち延びた話は、九反田地蔵尊のところで幾度か書きました。それと関係あるのかないのか知らんけど、皆山集には、三成の遺児が逃げ延びてきて一豊に保護され、国沢村に給地が与えられた、という話が載ってるそう。で、「元荒蕉の泥土にして荻花蓬萱繁生し、兎児の巣窟たり」という国沢の地を刈耕して居宅を営み、「萱中」と姓を改めたんだそう。筆山の石は、その萱中氏の子孫が立てたものらしい。
真相は知らんけど、ここが湿地帯で、萱が一面に繁茂していたのは、間違いないようです。今はそんな痕跡もないけど。
このビルの跡地を発掘したら、国沢氏に関係するもの、萱中氏の痕跡とか、見つからんでしょうかね。湿地帯であった地層は、見ることができると思います。ああ。見てみたい。