会社のご近所の謎〔5723〕2018/12/16
2018年12月16日(日)薄曇り
今年の日曜日も、今日を入れてあと3回か。早いものだ。年末。今日の街も、賑わっているんだろうと思います。商品もたくさん売れると良いですね。
そんな師走の日曜日。会社に来てますが、10時から、近所で重要イベントがあるのでちょこっと行って来ました。そう。一昨日ご紹介した野市の高田遺跡の、現地説明会。これは、弊社の立地にも関わってくる問題なので、聞き逃す訳には参らんのであります。
そもそも、南海道。
近畿方面から伊予周りの、とんでもなく遠いルートが始まり。で、718年に徳島経由となり、796年に北山越えとなる。近世になっても、山内の殿様の参勤交代ルートが幾度も変更されてるように、どの道が主要幹線路、という風には定まらなかった土佐の道。
国分寺や比江界隈が土佐の中心であった8世紀は、近畿との往来は、徳島周りのルートが南海道とされてたと思われます。もちろん船での往来も盛んだったろうけど、陸路は徳島、淡路島経由でありました。
祈年遺跡の官道や、この道は、真北から少し東に触れる方角に沿ってつくられています。いわゆる香長条里。現在の農地や宅地も、Googleマップで見たらその香長条里に見事に合致してるので、古代のこの条里の設定がいかにすごいことであったのか、よくわかります。たぶん、律令制度の導入に合わせて作られたんだろうと類推できる。マス目状とか、直線道路とか、日本の発想にはないですきんね。
この道路跡の最大の特徴は。広いということ。幅10.4mは、土佐で発掘された道路跡の中では一番広い。もちろん律令制度の中でつくられてるので直線。これだけ広いのは、「駅路」とか「伝路」とか色々ある律令時代の官道の中でも一番重要な「駅路」であっただろう。つまり、南海道であったと考えるのが順当なのである。
しかし、ここが8世紀の南海道だとすると、今までに発掘された官道の配置から言うて、ちょっと南過ぎます。
香長条里に沿ってここから西へと道を延ばしていってみよう。写真右端に、上岡山。あの山の南麓を通り、物部川を渡ってまっすぐに西へ。祈年遺跡の南北の官道と交差するのは、吾岡山と船岡山の間くらいだ。そうだった可能性も、ありますね。国分寺からまっすぐ南に来て、船岡山に突き当たり直角に左折。吾岡山の南を東へ進む、というルート。
今まで考えられてたのは、東工業高校近くの若宮八幡宮さんの北で直角に曲がり東進するルートとかだけども、それだと物部川を渡るのは弊社よりも旧国道よりも北で、野市側で言えば深淵。深淵で渡って、左岸を南下し、置松のところで左折して南海道、というのもアリだ。
その場合途中に、この時期県下最大級の建物を含む14棟の建物群が発掘された下ノ坪遺跡を通るが、そこは水運の拠点でもあったので、アリ。
今回の発掘で、南海道のルートについて新しい知見が加わった。どの時代、どのルートが南海道であったのか。物部川は、どこで渡っていたのか。
今みたいに一筋に固定していなかった物部川。たぶん、いくつもの流路を渡らねばななかった。弊社の辺りは、そのホノギ名などからみて、川の中洲みたいな場所だったのかも知れない。
弊社の対岸少し南の段丘下に「下ノ坪遺跡」。8世紀頃、たくさんの建物が並び、大型建物もあった。なんと、段丘の下。物部川の水面と同じくらいの高さ。それは、川港のようなものであったことを示しています。
さてさて。いったいどこで物部川を渡渉してたのか。下ノ坪遺跡と南海道の関係は。
謎が謎を呼び、古代のロマンは深まってゆく。会社のしゅっとご近所で。