天山、勝山、御幸寺山〔5722〕2018/12/15
2018年12月15日(土)晴れ
危ない危ない。にっこり書くの、こわいこと忘れるところやった。昨日の午後に松山へ行って、泊まってました。で、今朝早く松山で仕事して帰ってきた訳ですが、今日は色々と忙しくて、ついつい書くのを後回しにしてました。
夕方になって、あら、まだ書いてない、と、ふと思い出したという訳だ。もし今晩飲み会とかがあって出掛けちょったら、そのまま忘れたまんまだったかも知れない。にっこりひまわりも、連続5721日で途切れるところだった。15年と8ヶ月でね。
毎日更新のブログとしては、ひょっとしたら日本最長かも知れないという、このにっこりひまわり。僕より前に始めて、毎日更新で続けているブログを、僕はまだ見たことがないので。
だから、ここで途切れさせてしまうのは、惜しい。でもまあ、途切れる時はこんな感じで途切れるのかも知れんね。
そんな訳で、写真は、今朝、夜明け前の松山市。こないだもご紹介した天山(あまやま)の上から市街地方面を撮影しました。向こうに見えるのが勝山で、てっぺんに松山城。
加藤嘉明。
秀吉配下で賤ヶ岳の七本槍で有名な戦国武将は、伊予国に領地を与えられて、正木(松前)に城を築いてたけど、関ヶ原の後、家康に願い出て勝山に城を築いて松山城としました。
この時加藤嘉明が家康に築城許可を願い出た場所は、3つの候補地だったと言います。その第一候補が、ここ、天山。第二候補が現在の松山城がある勝山で、第三候補が勝山の北、御幸寺山だったとか。山頭火が晩年過ごした一草庵の北の山だ。
当時、家康は「第二候補」を認めるという癖があったとかで、策士である加藤嘉明は、本命の勝山を第二候補にした、という説もあるけどどうなんだろうか。
ウィキを見ると、嘉明は、石手川の河川改修を命じて重信川に合流させた、とある。地理院地図の治水地形分類図を見ても、石手川の旧河道がどこなのか、ちょっとわからない。でもこの地図を見るとどうだろう。ここ、天山は、石手川と重信川に挟まれたデルタ地帯にある、小山だ。天山の西側に広がるデルタは、二つの川の水運も期待できる便利な土地であったんではないか。しかも、そのデルタの真ん中には「椿さん」で有名な伊予豆比古命神社が鎮座まします。古い古い信仰の場所だ。
石手川の重信川合流は、そこにできるデルタに城下町を建設する布石ではなかったのか。そんなことを勝手に妄想してしまいました。松山の皆さん、ごめんなさい。
もし、天山に城が築かれ、そこが本拠となっていたら。
城下町は、椿神社を中心に広がっていたのかも知れない。あの辺が、城下町の中心部。
歴史にもしもは無いけども、そんなこと妄想するのは、楽しい。
家康の、ちょっとした気まぐれで、ここに全然違う都市ができあがっていたのかも、知れません。