変わってゆく鏡川〔5707〕2018/11/30
2018年11月30日(金)晴れ!
雑喉場橋。ざこばはし。
この大きくて立派な雑喉場橋が架橋されたのは昭和56年3月。僕が東京で大学生をやっていた頃。実は、向こうに見える潮江橋も、現在のやつは昭和56年4月完成。ここから少し下ったところに架かる巨大な鏡川大橋は、雑喉場橋と同じ昭和56年3月架橋。
で、現在の紅葉橋は昭和55年3月で、柳原橋が昭和54年3月。
あの頃、鏡川の風景が激変していたことが、この年代でわかります。そう。昭和45年の、いわゆる「10号台風」で、高潮などによって高知市が水没し、浦戸湾沿岸の高潮対策工事が急激に進み、そして昭和50年の台風5号。あの台風で増水した鏡川は、日本で最初の潜水式橋、柳原の沈下橋を押し流してしまった。高知市街地も、水没。翌年にも台風17号がやってきて、市街地水没。
そんなこんながあったので、鏡川の洪水対策工事が一気に進められたんだと思う。堤防を作り変えると同時に、頑丈な橋を、架ける。で、昭和54年から56年頃に、新しい橋の完成ラッシュが訪れた、ということだと思いました。たぶん、そう。
当時の写真には、流される前の沈下橋も写ってます。撤去されたばかりと思われる南国橋の痕跡も視認できますな。
で、こないだ書いたように、ここにあった船着場は撤去され、雑喉場橋は新しい立派なものに架け替わったのでありました。こないだの写真では、船着場の痕跡と思われる人工的なゴロゴロがハッキリ見えんかったと思うので、今朝4時半前に、今一度撮影してみました。こんな感じね。四角いゴロゴロは、ここにあった船着場の残骸ではないだろうか。
当時の雑喉場橋界隈の航空写真は、これ。今のが、これ。見比べると、今の雑喉場橋がいかに立派かわかります。ここに船着場があった当時の雑喉場橋は、細い。狭い。この写真で見る限り、自動車のすれ違いもできんかったんではないか、というくらい狭い。でもあの頃から、新堀川を埋め立てて広い南北の都市計画道路を作る絵が描かれていたんだろうね。だから、今の雑喉場橋は不釣り合いなくらいに大きいんだと思います。知らんけど。
高潮や洪水対策で、新しくつくられた護岸堤防と橋ですが、東日本大震災を受けて、ここ数年で強化工事が行われました。護岸の強化と、橋の耐震工事。概ね終了したので、風景としては以前と変わりません。が、かなりの耐震化が図られたんだと思います。大きな揺れや津波がここを襲っても、堤防や橋が破壊されないように。
自然災害の中で暮らす僕らは、どうやって自然災害と向き合い、対策を重ね、折り合いをつけていくのかは永遠のテーマ。美しい風景と防災。これは難しい難しい永遠のテーマ。
技術が進歩し、対策は寝られるけども、答えは出ない。