船着場の痕跡〔5705〕2018/11/28
2018年11月28日(水)薄曇り
今朝、5時前の鏡川。空には雲が多くて、星は見えません。少し気温は高め。鏡川沿いを歩いて与力町へ。
ここは、雑喉場橋北詰の東側。堤防の外の歩行スペースから降りたところ。干潮なので、川の浅い部分はゴロゴロと石が露出しています。
そこに見える橋は水道橋。僕らが高校生の頃、教室の窓から、この水道橋が架けられる工事を眺めた記憶がありますな。遠い昔。もう、40年も前になるのか。その頃、この場所を訪れることはなかったので、ここがどんな風景だったのかは、知らない。
ここを通るたびに気になっているのが、このゴロゴロ。大きな自然石もあるのですが、明らかに人工的なものも多く転がっている。セメントで固めたみたいな。ここに何か構築物があって、それを壊した痕跡のようなもの。そう。明らかに、何かを壊した残骸だ。
考えられる可能性として、ここにかつてセメントで作った堤防があって、現在の新しい堤防を構築する際に破壊し、その残骸をここに転がした、という案。でも、それならここだけではなくて他の川岸にもこのような残骸がたくさんないといかんではないか。
謎は謎として、今まで放置してました。迂闊にも。
そうだ。地理院地図を見よう。
地理院地図には過去の航空写真があるではないか。早速、この地点の航空写真を見てみました。現在の航空写真が、これ。今朝の撮影場所は、この十字のところね。
1961年~1969年というのを見てみよう。白黒写真。ボヤけているけど、当時、この川岸にコンクリート製の堤防みたいなのは、無い。唐人町の高い部分そのものが堤防で、その外側には堤防は見当たらない。
そのかわり、川に何やら四角いものが突き出してます。その東側はなんとなく入江みたいになってるし。船着場か?
1974年~1978年の写真を見ると、同じ場所の、カラーの鮮明画像がありました。おう。船着場だ。たくさんの小舟が並んでいる。そうか。ここにも船着場があったのか。
今、ここにたくさん転がっている人工的なゴロゴロは、船着場の痕跡なのか。そうに違いない。
この北は雑喉場。魚河岸があった場所。新鮮な魚介類は、浦戸湾から堀川を遡上して横堀へ入り、雑喉場へと水揚げされると同時に、こちらの鏡川からも水揚げされ、高知の城下にたくさんの魚介を提供していた。そんな風景の名残が、僕らが中学生の頃までは、確かにここに在ったのである。なるほど。
河田小龍さんが明治期に書いた高知市街図には、ここに「慶長魚市 舟 ワタシ」と書かれてます。ここは、水産物が荷揚げされる船着場であると同時に、鏡川の南岸へと渡る渡し船の発着場でもありました。
そう。ここは小さな港だった。僕らが中学生の頃まで。
あの水道橋の工事を眺めたのは、高校の教室の窓から。その頃は、もう、船着場は解体されていたのかも知れません。いや、同時に新しい堤防の工事をしていたのかも、知れない。
40年前。ですが、ついこないだ、という感覚でございます。つい、こないだまで、ここに船着場があって、たくさんの船が係留されていた。
その痕跡が、この、ゴロゴロ。