魚河岸文化〔5657〕2018/10/11
2018年10月11日(木)小雨
小雨。秋、深まってきました。
今日。今日から、豊洲市場の運用が始まってます。さあ。どうなったことやら。混乱なくスタートできていれば良し。これからの、日本の食品流通、食品文化がどうなっていくかを占う、大きなできごとになるであろう、豊洲市場開場。
今度、東京出張に行ったら、早朝行ってみよう。
ここは今朝の堀川。4:10。静かな雨が落ちてくる、堀川。この先には、昭和42年まで、高知市中央卸売市場があった。今のかるぽーとの場所ね。この堀川があったからこそ、そこに市場ができた。江戸城下に日本橋川が流れ、そこに魚河岸ができたようにね。
江戸城でも高知城でも、お城から特権を与えられた生魚商人が、お城へ新鮮な魚介類を供給することと引き換えに、魚河岸で商売を栄えさせたのは、藩政期の初め頃の話。その特権商人たちは、そもそも、どういう人たちだったのか。
日本橋の魚河岸は、家康が江戸に入ってから始まりました。最初は、房総や江戸湾各所からあつまってきた漁民たちが開いた市場ができてくる。そこに、家康の覚えめでたい森孫右衛門率いる森一族がやってきて道三堀に魚河岸をつくり、それが江戸時代を通じて繁栄する日本橋魚河岸の元となったのでありました。
以前、佃島のご紹介した時に、佃島は、江戸幕府開府の折に、大坂、淀川近くの佃村に住む漁民たちが移住してきて住みつき、漁業に勤しんだので佃島になった、てなこと書いたことあると思います。
そう。佃村の漁民。
でも、この「漁民」は、実はただの漁民ではなかったのである。森孫右衛門は、元は見一孫右衛門。佃村の漁師の親分。で、どうやら、徳川家康の、インテリジェンス関係の仕事もしていたらしい。スパイね。本能寺の変の際に、伊勢白子から家康を逃した海民も、この一族だったし。豊臣方の情報を、時に漁民になったり生魚商になったりしながら探る役目があったんだと言われてます。大坂の陣では海戦でも活躍。
そんな一族が、徳川と一緒に江戸へ向かい、そして江戸湾にポツンと浮かぶ小島に目をつける。そこを拠点にして白魚漁を行い、江戸城へ納入。特権商人としての地位を確立する。
そして。日本橋に、魚河岸を開設。
板子一枚下は地獄、という漁民の、荒々しい、思い切りの良い性格。それが、日本橋の魚河岸の性格を方向付け、それがいわゆる江戸っ子になった。江戸っ子のルーツは、淀川近くの漁村にあった、という説を唱えたのは、中沢新一だ。
ともかく。この堀川岸。
江戸時代の雑喉場、魚河岸の流れを汲んでいた九反田の卸売市場は、ゴチャゴチャとした中で賑わい、その魚河岸文化も継承されてきていた。昭和43年に弘化台に移り、栄えてはきたけど、近年は取扱量も減り、水産部門はついに「中央卸売市場」ではなくなってしまった。ただの「流通」「物流」「経済」ということだけだと、市場の持つ意味合いが薄れてきてしまったからだと思う。
豊洲。経済効率や合理的な「流通」「物流」「経済」だけを考えて運営すると、弘化台と同じような道を辿るんではないかと思えて思えて。
築地の、混沌としているように見えてつながっている、あの仕組み。信用。信頼。目利き。専門家。アドバイス。とんがった品質。他にない珍品。独特のノウハウ。そんなものが綯い交ぜになった、巨大な「場」が、築地だったと思います。
豊洲市場が成功するには。そんな「場」を失わないこと。