「生きる」という営み〔5586〕2018/08/01
2018年8月1日(水)晴れ!
晴れた。晴れました。ニッポンの夜明け。またこれから暑い日が続きます。今日から8月、夏本番。
会社の、僕の部屋の窓。窓の外に、しばらく前から女郎蜘蛛が1匹、巣を構えています。かなり大きめ、ちょっと肥満気味の女郎蜘蛛。
直径1m。大きく張った蜘蛛の巣に、獲物がかかる。色んな虫が蜘蛛の巣に絡め取られ、捕食されていくサマを、毎日眺めてます。小さい虫から大きな虫まで。いや、なんでも食べますね。すごい。
今朝も、アブラゼミを捕食してました。豪快に食べる食べる。外から聞こえる蝉の声はクマゼミが主体ですが、アブラゼミも、います。
そのまま撮影すると刺激的なので、逆光でボカしてみたぞよ。右端に写っている、アブラゼミ捕食中の、女郎蜘蛛。今にもバリバリと音が聞こえてきそうな、豪快な食べっぷり。
ご承知のことと思うけど、女郎蜘蛛は、雌が大きい。雄の5倍ほども、大きい。なので、当然ここの女郎蜘蛛は、雌だ。圧倒的体格差と、その立場は、男女同権など吹き飛んでしまうような性差がある。雄の女郎蜘蛛が交尾に挑むのは、雌が捕食中のタイミングを狙うと言われてます。理由は、そうしないと雌に食べられてしまうから。そう。捕食中ならそちらに忙しくて大丈夫なんですが、捕食中でなければ、交尾に挑んだか弱い雄は、雌に食べられてしまんだそうですね。捕食中であっても食べられてしまうこともあり、とにかく雄にとっては命がけの、子孫を残す行為。
雄は、そんな艱難辛苦があっても、本能的に遺伝子を残そうと頑張る。命がけで、頑張る。雌は、それほど切実に繁殖行動をしなくても、雄がどんどんとやって来るので、交尾にそんなに悩むことは、ない。それよりも、その大きな身体を維持し、たくさんの子供(遺伝子)を残すエネルギーを蓄えるために、捕食を最優先するのでありましょう。大自然の摂理だ。
捕らえられたセミの方は、長い年月地中で過ごし、遺伝子を残すためだけに、その生涯の最後に地上に出てきた生き物。さあ。この捕食されているアブラゼミは、もう、遺伝子を残すことに成功したでしょうか。もしまだだったとしたら、少し可哀想。
もう、繁殖した後だったら、堂々とその人生(セミ生)をまっとうしたことになるので、例え捕食されても悔いはなかったのではないか、と、思いました。なんせ、前にも書いたように、セミが生きる、とうことは、地中で何年も生きる、ということだから。そして子孫を残すためだけに、その生涯の最後に、地上に出てくる。
暑い夏の日。
あちこちで、生きる、という営みが繰り広げられる。生きる。そして遺伝子を残す。
人類も、精一杯その人生を生きる、そして遺伝子を残す、という大きな目的の為に、太古の昔から、生の営みが繰り広げられてきた。本能のおもむくままに。
仕事をする、とは、生きる、ということ。
南方熊楠は、粘菌などの生き様に、「生きる」とはどういうことかの答えを見つけようとしました。この、大自然の営みの風景、蜘蛛がセミを捕食する、という光景を見て、僕も「生きる」ということを考える。
さあ。「生きる」を具現化するために、今日も仕事仕事。