図書館と志〔5584〕2018/07/30
2018年7月30日(月)小雨
台風が過ぎました。高知では、あまり台風の影響もなく、心配された稲刈り直前の田んぼも、無事。気温が少し下がってひと心地、といった朝になりました。今日明日は雨模様の予報。
で、昨日のオーテピア。
その広さ明るさ快適さは言うまでもないですが、基本構想検討委員会でも委員から強く提言されていた、開架部分での蔵書の多さは圧倒的で、各所に配置された司書さんや係員も心強いと感じました。郷土資料エリアでも、以前はカウンターで申し込んで奥から出してきて貰わんといかんかったような図書が開架で並ぶ。こんなにあったのか、と、感銘を受けてしまいました。
仕事でも、事業計画を考えたりするには最適かも知れません。資料は揃ってますし、考えをまとめる空間が、ある。
あと、サイレントエリアとかグループ室、休憩室など、最新の図書館システムが織り込まれてました。昨日はグループ室もどこも、多くの人々で溢れ、子供も多かった。この風景が未来の高知を、未来の日本を創るんだ、と感じて嬉しくなったことです。
オーテピアの前には、寺田寅彦さんの銅像。大自然の中の、なんでもないような現象から不思議を見つけ出し、物理法則を発見する寺田物理学。そして文学や音楽にも優れた才能を発揮した、好奇心の巨人、寺田寅彦さんの銅像がそこにあることが、オーテピアの未来を確約してくれているようで、嬉しい。
寺田寅彦さんの銅像が向いている追手前高校は、その前身である高知城東中学校の全身である高知県立第一中学校の前身である高知県中学校の前身である高知尋常中学校が、寅彦さんの母校。明治26年に入学しているので、その校舎は現在の追手前高校の場所にありました。
その寅彦さんが、高知尋常中学校を卒業して熊本の第五高等学校に入学したのは明治29年。
本来、高知の優秀な学生は、京都の第三高等学校へ進学し、東京帝国大学へ進む、というのがコースでした。ところが丁度寅彦さんが進学する時期、第三高等学校が無くなっていたのであります。帝国大学が東京帝大だけだというのはいかがなものか、ということで、京都に京都帝国大学が創設され、それによって第三高等学校が廃止されていた時期があるんですね。それが丁度、その時期。
尋常中学校の仲間と一緒に高知を離れた寅彦さん。土州丸という船で神戸に向かい、神戸からそれぞれ、その進路に向かってゆく。寅彦さんは神戸から熊本へと向かった訳ですが、神戸で別れて東京の陸軍士官学校へ向かったのが、川田明治さん。陸軍中将まで上り詰める川田明治さんは、上岡八幡宮さんの氏子で、陸軍少将のときに玉垣を御寄進されている話は幾度も書きました。
その玉垣が、この写真の右端、石段を上った角にあります。写真は今朝4時半の上岡八幡宮さん。
こないだ、石灯籠のこと、書きました。この八幡様で、火袋が残っているのは参道入口脇の一基だけ、ということを書いてしまいましたが、嘘でした。そう。ここにも火袋が残る石灯籠が、一基。
川田明治さんが玉垣をご寄進された頃は、まだ、火袋が残る石灯籠がもっとあったのでしょうか。
皆、若い時代に青雲の志を抱き、その志に向かって突き進む。挫折や失敗を味わいながら、それでも進む。図書館前の寅彦さんの銅像や、川田さんの玉垣は、若き日の志の大切さを、教えてくれる。