快晴!兆民通り〔556〕2004/10/23
2004年10月23日(土)またまた快晴!
昨夜は、9月19日に高知市中心部で開催されました「高知街ラ・ラ・ラ音楽祭」の実行委員会の打上げでした。深夜まで大騒ぎでほたこえよりましたので、今朝はかなり辛いです、はい。でも音楽で繋がる仲間ってえのはいいですね。本当に感動しました。
さて、二日酔いか生酔いかよくわからない身体をひこずって、ここは新堀川。横堀とも呼ばれた、藩政期の物流の幹線路ですね。写真のすぐ北側で江ノ口川に合流しますが、そこには、舟が通れるように刎ね上がる「刎ね橋」が架かっちょりました。今でもその名前は残っちょりますが、普通の橋になってますね。現在架け替え工事中。
で、この碑には「兆民通り」と刻まれちょります。明治初期に活躍した社会思想家「中江兆民」に由来するのはもちろんです。中江兆民は、東洋のルソーとも呼ばれた思想家で、明治期の社会運動に大きな影響を与えた巨人です。この碑の地点から川と直角に西へ伸びる通りに住んでいたそうです。で、有志によって、この通りを「兆民通り」と呼ぼう、という運動が実って、この碑が建てられることとなったのであります。ここは山田町。藩政期には番所がありまして、維新の志士平井収次郎は、ここで切腹させられました。その模様を近所に住んでおった中江兆民氏が書き残しています。
その文章の一部が、当時のこの界隈を描写していることから、この碑の裏に刻まれちょりました。
「余幼時 母弟と共に土佐高知山だ町のな中なる部屋町に住へり 此町を東に出れは 南北に流れたる小川有り 川の手前の角に萬屋と云へる煮売店有り 夏月には店の主人腰掛・・」