国衙がここに?〔5542〕2018/06/18
2018年6月18日(月)薄曇り
台風は温帯低気圧になり、雲は多いけど、降りません。おだやかな月曜日の朝。ここは今朝、4時半頃の南国市、若宮ノ東遺跡。一昨日の高知新聞に掲載され、昨日のにっこりでも触れた、7世紀後半の役所跡であると思われる遺跡に、出勤途中、寄って撮影してきました。このブルーシートの下に、重要な遺跡があります。
で、昨日とかに書いた内容で、僕の間違いがありました。専門家の方に話を聞いたりして、判明。今日はその訂正をしておこう。
真北から東へ10度振った角度に、条里が形成されており、それは高松市の古代条里の角度と同じではないか、という妄想。でも、こちらの条里の角度は正確には13度なんだって。そして「香長条里」という名称もあり、考古学的にはとても当たり前の話として流通しているんだそう。なんだ。そうか。
ここで発掘された大型建物の柱穴によると、建物とそれを取り囲む塀、溝の向きは、その香長条理の向きにピタリと合っているんだそう。これは、ここから祈年遺跡を通って国分寺まで、まっすぐの官道が13度の角度で繋がっている、という話。なるほど。
でもここで、謎が一つ。
律令制度に基づく官道ができるのは、8世紀になってからだと思う。香長条里は、その時にできたと考えるのが普通だけども、この遺跡は7世紀後半だと言う。そんな時期から、香長条里があったのか?
これは、これからの研究を待ちたいところです。
7世紀後半の建物、としたのは、側溝からその時代の須恵器が少しだけ見つかったから。それは、この建物が7世紀後半「以降」に建てられたものであることを証明するけど、7世紀後半の建物である、ということを厳密に証明するものではないですきんね。
いかんいかん。素人が専門家にケチつけたら、いかん。ここは素直に、この発見を直視しましょう。この遺跡が今、すごく注目されているのは、建物が大きいから。柱穴から推測される建物は、東西21m、南北6m。高知県最大級の掘立柱建物。そしてキチンと測量された敷地に、正確な設計施工で建てられた、建物。
これ、郡の前身である「評」の役所であった、という解釈もあるけど、その大きさから、国の役所であったのかも知れない、という説もあるんだそう。
そう。古代土佐の国衙は、国分の東の比江にあったことはわかってますが、ひょっとしたら最初はここに作られ、後に、比江へ移転した、ということも考えられる訳で、そうだとしたらすごい発見。
古代土佐の歴史を塗り替える大発見、かも知れないのでありますのだ。
官道は、この界隈で南北と東西が交差していたと思われます。交通の要衝。そこに重要な施設が建てられる、というのは、アリ。
ここは都市計画道路で、道路の下に埋められてしまう遺跡ですが、道路工事のお陰でみつかった貴重な遺跡。まだ、埋蔵文化財調査は続くので、これからに期待したい。
それまで当たり前に思っていた常識が、実は違っていた、ということ、あります。常に、前向きに、調べる、考える。仕事でも同じですね。調べる。考える。行動する。