手結山の火〔5529〕2018/06/05
2018年6月5日(火)まだ晴れてます
梅雨の晴れ間は今日までか。でも、朝は晴れてます。涼しい朝。
今朝は、酪農家さんで弊社のローリーが集乳する風景を撮影する為に、朝の2時に家を出て安芸方面へ。その途中、国道55号線の手結山の坂から、手結の街を撮影してみました。丑三つの、手結。
2時半。まさに草木も眠る頃合い。露出を上げて撮影しているので街灯が明るいけど、実際は暗い静かな街の風景。
あの、有名にして特徴的な跳ね橋が屹立しているのが写ってます。船が手結の港に入ってくるときは、あのように跳ね上げております。不思議なオブジェ。
手結。ここも野中兼山さんが港を整備したことで有名。そして手結坂。
東部の安芸方面と高知の城下を結ぶルートはたくさんあります。でも、どのルートも、必ず手結坂を通るようになっていた。なので、とても交通量の多い峠の道だった、手結坂。
昔の往還は、現在の坂道の途中から左へ上がり、更に幅1mくらいの小径。今も、峠の茶屋「琴風亭」の跡が残る、峠。
その茶屋は藩から任命された番役が常駐しておったとか。最初は珍しいことに山伏が任命され、1670年から幕末までは、ずうっと、沢家が番役を勤めたんだそう。その沢家の分家が天保年間に開業したのが、峠の餅屋。元々の峠にあったものが、明治になって県道が開通したのに合わせて移転、その後、国道のトンネルができて現在地に引っ越してきた、というお餅屋さん。時々、無性に食べたくなる峠の餅。おいしいです。
この手結坂の峠には、往来が多かったこともあって、色んな歴史が散りばめられている。
有名なのは江藤新平ですよね。
明治の元勲、江藤新平は、佐賀の乱に敗れて土佐へと敗走。仲間がどんどんと捕まる中、最後は二人になって手結坂に差し掛かる。
で、峠の茶屋、琴風亭で茶を飲み、餅を食べ、茶盆の下に十円札という高額紙幣を置いて立ち去った、という話。それでここを通ったことが役人に判った、てな話もありました。
こないだ古本市で買った「土佐の峠風土記」には、更に面白い話。
昔。長浜に、宇賀の長者と呼ばれた大富豪がおりました。で、お伊勢参りへ行った帰りがけ。手結山の峠に差し掛かったところ、西の方角に大きな火の手があがるのを発見。これほどの大きな家事は、長浜の自分の家屋敷以外には考えられない、急いで帰っても間に合わない、と言うて、着物の裾をまくって尻を西に突き出して、尻をあぶったという。何を考えておったのかな。
お尻を炙ったことに何の意味があったんだろう。という詮索はさておいて、それ以来、遠火でものを温めることを「手結山の火」と言うようになた、という伝説。
高知には宇賀の長者伝説、たくさんあります。以前にもにっこりでご紹介したこと、あるくらい。探してみたら、土佐が生んだ文学者、田中貢太郎さんの「宇賀長者物語」が、ここで無料で読めました。基本、悲しい伝説。お尻の話も、書いてますね。
今日の知識。
手結山の火。
遠火でものを温めること。