九反田地蔵尊の謎とサーカスの熊〔5489〕2018/04/26
2018年4月26日(木)晴れ
人間、すぐに環境に適応してしまうので、ちょっと暑い日が続くと、今朝のような気温を肌寒く感じてしまいます。こないだまで、これっぱあの気温を暖かいと感じておったのに。感覚は相対的なもの、ということがよくわかる。
ここは今朝、4時半前の九反田。高知市文化施設かるぽーとの、南。狭い間口に細長く、地蔵堂が鎮座まします。九反田地蔵尊。
昨日のにっこりに書きました。藩政期初期、ここに、称名寺というお寺さんがありました。昨日も書いたけど、万治三年(1660年)に火災で焼失。翌々年に、筆山北麓、筆山トンネル西出口の近くに移された、称名寺さん。
称名寺さんがあった跡地には、種崎町から百間蔵が移され、土佐郡長岡郡から集めてきた年貢米の収納庫となったのでありました。かなり大きな蔵。だから、称名寺もかなり広い境内を持つお寺であったことがわかるね。
藩政期も後期に入った文政年間。その大きな米倉の床がしばしば鳴動する。これはおかしい、ということで米倉の床下を掘ってみたところ、首のないお地蔵さんと、石碑が出てきた。その石碑には「天周妙周尼慶長十八年六月二十二日」と刻まれている。これは、慶長五年(1600年)に関ヶ原で敗れた石田三成の娘の菩提を弔うお地蔵さんだ。三成の幼女は、関ヶ原の後、乳母に連れられて土佐へと逃げてくる。しかし、七歳で疱瘡を病んで無くなってしまい、乳母が、それを悼んで地蔵尊を建立した、という言い伝えが残っていたので、そのお地蔵さんに違いない、ということになって、改めて米倉北の土手上に地蔵堂として祀ったのが、この九反田地蔵の始まり。
その乳母が頼ってきたのが、称名寺の住職。
ところが。称名寺は、元々、浦戸にあった。寛永九年(1632年)、二代藩主山内忠義公夫人の菩提寺として、浦戸から九反田に移転してきたもの。
と、すれば、三成の娘と乳母がやって来たのは、浦戸か?
なぜ、浦戸で亡くなった幼女を弔う地蔵さんが、九反田にあるのか?
これは少し謎いですな。
浦戸界隈のお寺、と言いますと、一向宗門徒を思い出す。秀吉と対立した一向宗門徒が、戦乱を避け、大挙して土佐へ移り住んだという事実があります。浦戸や種崎界隈へ。藩政期初期の豪商、播磨屋とか櫃屋とかは、その一向宗門徒とされてますよね。
ならば、その称名寺は一向宗、つまり浄土真宗だったのか。忠義公夫人は、一向宗に帰依していたのかも知れない。
現在、升形にある称名寺さんは浄土宗。お寺の宗派が変遷していく、という話はよくあるので、昔は浄土真宗のお寺さんだったのかも知れない。
三成の乳母は一向宗門徒だったのか。しかし何故、九反田から地蔵尊が?
そんな謎はさておいて、右手にあるのは僕の自転車。ベージュの折りたたみ号。便利な折りたたみ自転車で、いつも車に搭載し、機動力を発揮してますが、こないだ街中をこれで走っていたら、街中で果物屋をやっている小学校の同級生Y君が、小さな自転車とふっくらした僕の身体を見て、「サーカスの熊みたいや」と宣う。やかましい!
でも、なかなか、うまいこと、言うね。