夏の杜、高知の寺町〔5488〕2018/04/25
2018年4月25日(水)良いお天気
昨日はよく降りました。風も吹いた。鏡川や物部川、かなり増水してます。せっかく、今年は近年になく鮎の魚影が濃いという両河川。鮎が減らないことを祈るばかり。
今朝は3時過ぎに出勤。雨も上がり、空には星々。風は強いですが、濁った空気を吹き飛ばしてくれるような、風。
夜が明けると、真っ青な空に煌めく太陽。雨上がりの風景が輝いて美しい。緑がまた一段と濃ゆくなってきました。
ここは野市、上岡八幡宮の杜。もう、夏の杜。
八幡様は、元々が宇佐八幡宮に代表される、応神天皇をお祀りしたりする武門の神様。で、江戸時代には神仏習合で、八幡大菩薩ということで信仰を集めたのはご承知の通りだ。神仏習合なので、境内に神宮寺が設けられたりした訳ですが、明治維新の神仏分離令によって切り離されたりしました。
この八幡様、すぐ隣に金剛院というお寺さんがありますが、神仏分離令と関係あるのかどうなのかは、知りません。
神仏分離令の頃、全国的に「廃仏毀釈」という悲しい動きがあったことはご承知の通り。神道を中心にして国民を統合しようという動きの中で、一部の過激国家神道論者たちによって推進された廃仏毀釈。明治維新で中心的役割を担った藩では、特に猛威を振るった廃仏毀釈。土佐でも、かなりのお寺さんが廃され、その後復興されたお寺もあるけど、そのまま復興できなかったお寺さんも、多い。
全国各地の城下町には、お寺が集中する寺町が存在する。これはですね、藩政期の都市計画で、同じような職業、同じような商売の人々を、一つの場所に集めて住まわせる、という政策を推進したのと関係あると思う。あと、城下町の防衛の為、などという説もありますな。
昨日発見したように、高知の城下で、お寺が並んでいる場所、というのはなくて、強いて言うならば筆山北麓。升形の称名寺さんも、明治維新までは筆山トンネル西出口の横にありました。
でもね。
藩政期初期、山内家は、城下の東に寺町を形成しようとした形跡があります。
山内家の菩提寺でもあった日蓮宗要法寺は、高知銀行本店裏手、要法寺町につくられた。それに並んで桂昌寺。その東、かるぽーとの辺りには、二代藩主山内忠義夫人の菩提寺、浄土宗称名寺。藩政期初期の絵図を見れば、他にもいくつかお寺さんが見える。寺町みたい。
しかし、万治三年(1660年)、称名寺は火事で焼け、翌々年、上に書いた筆山北麓に再建。
貞享四年(1687年)には要法寺からの出火で、要法寺も桂昌寺も、全焼。要法寺も筆山北麓の現在地に再建し、桂昌寺は筆山東麓に妙國寺と名前を変えて再建。
土佐藩は、城下町東側を寺町にすることは諦めたのか。その地は、城下町にとって重要な物流拠点、商売の中心として発展し、急速に都市化しつつあったからだと思います。お寺の跡地は、そういった利用が急速に進むようになりました。
変わって、山内家ゆかりの真如寺を中心に、お寺がいくつか並ぶようになった筆山の麓。
もっとたくさんのお寺が並んでいたけど、廃仏毀釈で今の数になったのかな、と思って調べてみましたが、そうではありませんでした。藩政期から、筆山麓のお寺の数はそんなに減ってない。
思いがけず都市化が進むなど、いろんな要因があって、高知の城下には、ひとつに纏まった寺町ができなかった、ということが、判ってきた、初夏の朝。
さあ。仕事仕事。