地名の由来、初夏の朝〔5484〕2018/04/21
2018年4月21日(土)晴れ
気持ちの良いお天気。今日も気温は上がって初夏の陽気。行楽日和なので、この週末はどこもかしこも賑わいそう。善き哉善き哉。
第三土曜日なので、今朝は会社のご近所清掃の日。第一、第三、第五の土曜日の朝、本社営業部のメンバーが中心になって、近所のお掃除をするのが定着して参りました。工場を操業する、ということは、ご近所様のご理解があって初めてできること。なので、その感謝の気持ちは、色んな形でお示しする必要が、あります。この活動も、その一つ。
ということで始まったのでありますが、やっているうちに、気持ち良くなってきます。住民の方に「ご苦労様!」と声をかけて貰ったりすると、もう、幸せな気分で1日を過ごすことができるよね。
また、風景が美しい。田植えの終わった水田の薄い緑と、樹々の若い緑と、青い空。心地よい初夏の風。このまま寝転がって昼寝をしたくなる。でも、今日はお仕事お仕事。
ここの地名は南国市物部。その昔、物部郷という村であったから、その名称が住所にも残ってます。で、何故、物部郷となったかと言えば、かの、物部氏の一族が住み、勢力を持ったから。
向こうに見える小山の、上岡八幡宮の石船伝説とか。「物部の置松」の話は、以前にも書いたよね。
地名には、由来がある。それは、そこの有力者の名前であったり、地形であったり、場所の要因であったり、色々。
今朝の日経新聞に、「大さか」の地名の最古の記述が見つかった、てな記事が載ってましたね。大阪のおおさか。大阪は、江戸時代は大坂で、天下の台所として日本の経済の中心となった。だから、大坂という地名も、昔からあると思いがちですが、戦国期以前は「なにわ」「なみはや」などと呼ばれていた、地。「なにわ」の由来にはこれまた諸説あるけど、その話は今度。
で、その「なにわ」の、弥生時代からの遺跡やら古代難波宮跡やらがある場所、「大さか」が、今日のテーマ。
上町台地。堺の方から北へと突き出すように伸びる、洪積台地。その台地の北の先っぽ。淀川と大和川が合流する地点で、海上交通の要衝にして、固い地盤と優れた防御性と陸上交通の要でもあった、その先っぽ。
親鸞聖人の頃から言うと弱小の組織に成り下がっていた本願寺教団を再興し、中興の祖と呼ばれたのが蓮如聖人。こないだの日経新聞「私の履歴書」で、山折哲雄さんがその思想について語ってた、蓮如。数奇な運命、迫害などを受けながら京の山科に落ち着いた蓮如と本願寺教団ですが、蓮如は、なにわの地の、ある地形に目をつけた。上町台地の北の先っぽ。
で、そこに坊舎を建て、石山御坊とした。というのが、通説。でも、その地を「石山」と呼ぶようになったのは江戸時代になってからで、当初から「おお坂御坊」とか「大坂本願寺」とかが呼び名であった、というのが、最近の説だ。
なぜ「おお坂」か。
台地の斜面。上町台地の斜面に寺町が形成された訳で、その斜面は、それ以前より「小坂」とか呼ばれていたらしい。小よりは大、ということだったのかどうなのか知らんけど、そこを「大坂」と呼び、坊舎の名前にした。大坂御坊ができたのが1497年。地形だ。
この度見つかった、蓮如聖人直筆の、1498年に書かれた和歌の草稿に、「大さか」。
現在のところ、最古の、おおさか。
ここに本願寺を建てなければ、大坂城はなかったかも知れず(少なくとも名称は違ったものの可能性が高い)、天下の台所は「大坂」ではなく、大阪万博はなくて、「阪」もないので阪神タイガースも無かった、ということになる訳だ。蓮如が、大さかと書き、大さか御坊と呼ばなかったら。
妄想が暴走しやすい土曜の朝。良い1日になりそうです。