辷山の桜と高知市酪農組合と尾戸焼き〔5456〕2018/03/24
2018年3月24日(土)お花見日和
これ以上ない、お花見日和。今日明日。この土日は、素晴らしいお花見日和になりそうな高知県地方。僕は仕事ですが。
で、あちこちの桜の名所には、今日も朝からたくさんの善男善女。お弁当を広げたり、写真を撮ったり。
ここは高知城の北側。辷山。この界隈の桜もキレイなので、子供連れとかのみなさんで賑わってました。僕は通りすがりですが。
この右下に写っている二階建ての建物。あそこが、高知市酪農組合の事務所。かつてはたくさんの酪農家さんが所属した高知市酪農組合ですが、高知市内で酪農業を営む農家さんは3軒になってしまった。でもね。高知で一番(四国でも有数の)規模を誇る酪農家さんや、教育ファーム、観光牧場に力を入れている酪農家さんがおりまして、活気あります。
高知県下で飼育されている乳牛の頭数を市町村別に見れば、なんと、高知市が一番多いんだ。これを言うと、皆、ビックリしますがね。そんな訳で、県下で一番多くの乳量を扱う酪農組合の事務所が、あそこ。
あの向こうが尾戸焼きの発祥の地。
藩政期初期まで、土佐では本格的な焼き物がなかった。全部、他所からの輸入。それではいかん、お金の流出を防ごう、ということで、二代藩主山内忠義公の治世の末期に、大坂の高名な焼き物師、久野正伯さんを招聘して始められたのが、いわゆる尾戸焼きだ。優秀な土佐の若者二人を弟子につけて。
久野さん、とても苦労したみたいです。土探しから始めんと、いかん。鴨部、能茶山の白土など、あちこちで探した土、材料を使って、焼き始めたのが承応二年(1653年)の冬。夏に来高し、初めて焼いたのが、12月。よくまあ、それだけの準備期間でできたもんだ、と感心してしまう。でも、名人としての意地もあったんだと思います。
これはよく知られてるけど、尾戸焼きの尾戸は、小津のこと。この北に小津という地名が残ります。昔、浦戸湾一面が海だった頃、小津という港があった場所。
その場所に、藩内の材料を集めて焼いたのが、尾戸焼き。
その窯場は、変遷を繰り返し、最終的には能茶山に落ち着き、能茶山焼きと呼ばれるようになったのはご承知の通り。
藩政期も後期になり、九州で磁器の製造が本格化。それが大量に流入してくるようになり、土佐でもなんとか磁器をつくらんといかん。と、なったけど、磁器に適した土がない。そこで、肥前から土を輸入し、能茶山で、焼いた。
尾戸や能茶山で焼いた陶器が、尾戸焼き。
能茶山で焼いた磁器が、能茶山焼き。
これ、最新号の土佐史談に掲載されている論文の受け売り。桜と高知市酪農組合を撮影してみたら、あまにりもタイムリーに尾戸焼きの話が出ていたので。
ところで、高知では、陶磁器のことを「からつ」と呼びますよね。
不燃物の日、集取場所を整理するおばちゃんが、「からつはこっちぞねー」と言います。結局、維新の後は陶磁器の製造は下火になり、汎用品には唐津焼などが大量に入ってきて、出回ったからなんでしょうか。
やきもののことを「からつ」と呼ぶのは、高知だけなんでしょうか。
最近の高知の若者は、「からつ」と呼ぶんだろうか。
恒例の高知市酪農組合の花見は、いつなんだろうか。
それまで、花が咲いているんだろうか。
それはともかく、今日は昼から会議だ。頭の中に花を咲かせて。