天津飯〔5433〕2018/03/01
2018年3月1日(木)晴れ
春一番。昨夜の風はすごかった。昨日のにっこりで、のんびりと「東風吹かば」などと春の訪れを楽しんでいたら、春一番。東風は、春に南東方向から吹く風だけど、春一番は強風。風が強いのが春一番ね。今朝の高知新聞にも、春一番といえばキャンディーズ、てな話が書いてあったけど、僕らの世代にとってはまさに、そう。「春一番」もそうですが、「微笑み返し」も、そう。なんと切ない歌なんだろう、と今も思う「微笑み返し」。はるいちばんが~、で始まるあの歌詞。あの卒業感、お別れ感は堪らない。
さて。空にはまん丸お月さま。ここは、今朝3時前の鏡川。鏡川大橋北詰の土手の上から撮影しました。今朝は3時半出勤にしたので、こんな時間の鏡川。
空の雲は強い風に流されて飛んで行く。深更の鏡川。
写真右端手前に新しいマンションが見えます。2棟、最近建ちました。5年ほど前の同じようなアングルの写真がこれで、何もなかった場所にマンションが建ったのがわかります。中の島は少しだけ海抜があるので、この北の下知などに比べたら、地震津波でも長期浸水にはならないと言われてまして、新しいマンションも建ってます。変わりゆく風景。
向こうに九反田橋、雑喉場橋。そこから西の北岸は唐人町。幾度もご紹介してきましたように、秀吉の朝鮮出兵に同行した長宗我部元親さんが、朝鮮の武将、朴好仁さんの一族郎党を連れ帰ってきたことに端を発する、川沿い町。山内の世になって、あの土手上に、豆腐製造販売の特権を付与され、住むことになったのが、その末裔たち。だから、唐人町。
朝鮮の皆さんですけど唐人町。大陸の方からやってきた人は、ぜんぶ、適当に唐人と呼んだりした緩やかな時代。隋唐の時代からは1000年近くも経過してたけど、唐という国が日本人に与えたインパクトは、とんでもなく大きかったんでしょうな。
イメージでつけられた名前だけど、実態を反映しているものではない、と言えば。
そんな食べ物、あります。日本で、中華料理屋さんで提供されるものに、たくさんあります。例えば中華飯。これはなんとなく想像できるけど、中国行って「中華飯ください」というのは、なさそうだ。外人が日本へ来て「ニッポンメシください」と言うているのと同じようなものかも知れない。
あと、僕の大好きな天津飯。ラーメン屋さんへ行っても、ラーメン食べずに天津飯食べるほど、僕は天津飯が好き。
この天津飯も、天津に行っても中国のどこへ行っても、ない。
芙蓉蟹というのは、ある。ふうようはい。このふうようはいをご飯の上に乗せたのが、天津飯とずうっと思ってきたけど、違っていたらゴメンナサイ。
ネットで調べると、戦後、どっかの日本の中華料理屋さんが始めたらしいけど、その起源には諸説あって定まらない。でもね。今や日本の国民的メニューになった天津飯は、日本にしか存在しない中華料理、日本人でよかったです。
天津飯にかかっているアンで思い出す。
東京の大学に通うことになり、上京する。西武新宿線の新井薬師前駅近くに下宿しました。その駅近くに小さな中華料理屋さんがあった。引っ越しの作業も一段落したので、ご飯でも食べようか、と入ったのがその中華料理屋さん。で、天津飯を注文。
ビックリしました。だって、かかっているアンが、黒いんだもの。あのときに、西日本と東日本の食文化の差を痛感した。僕も見知らぬ東京で一人暮らしを始めるんだ、という実感が、あの黒いアンがかかった天津飯を食べたときに、心の底から湧き出してきたことを思い出す。大げさですね。ちょっと、盛りました。
今でも、ダメですね。あの手の、黒いアンの天津飯。
もうひとつネットに書いてあった。
名古屋から西では天津飯で、東では天津丼が一般的だ、と。そうでしたっけ?
僕が新井薬師駅前の中華料理屋で食べたのは、天津丼だったのか?
もう、今となっては記憶の彼方。あのお店もとうの昔に無くなってしまったし。
さあ。天津飯はどうでも良いけど、早朝の工場では、もう、働いている仲間がいます。僕も仕事仕事。