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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

湯築城、河野氏、長宗我部氏〔5399〕2018/01/26

湯築城、河野氏、長宗我部氏

2018年1月26日(金)晴れぞなもし

そんな訳で、今朝は松山。四国地区乳業協会の寄り合いがあって、来てます。寒い。寒いですね~。でも、今朝の最低気温を見ると松山より高知の方が寒いんだ。昨日来るとき、四国山地は雪がどんどこ降っており、今朝のことが心配されましたが、高知自動車道は通行止めもなくて、安心安心。

さて。昨夜は道後温泉泊。市街地に泊まるのか道後温泉に泊まるのかは悩むところですが、今回は少し時間的に余裕があったので道後。

道後温泉は、日本最古の温泉とも言われますよね。嘘か本当か知らんけど、縄文時代から温泉が利用されていたとかなんとか。四国には火山がない。何故、温泉が昔から?

火山は、海洋プレートが海水を伴って陸側プレートの下に沈み込む際、その水分が一定の深さに達したところにできる。いわゆる火山フロントというやつで、フィリピン海プレートの火山フロントは、山陰。沈み込む角度が浅いので、火山ができる深さに達するのが、太平洋からかなり離れてしまう。

では、火山フロントでもない松山に、何故、温泉が。

それはどうやら、断層が犯人。断層の割れ目に、地中深くの熱いお湯が沁み上がってきた、という話。でも、たぶんそれだけではないよね。この近くを走る中央構造線や、この辺の花崗岩質の地盤が関係しているんだと思います。

 

さて。その道後に、河野氏が本拠を置いたのは14世紀初めころ。河野氏というのは古い有力氏族で、松山北部の河野郷からでた豪族。源平合戦で、一族の河野通信が水軍を率いて源氏方で活躍したのは有名。その先祖は越智氏というから、古いね。ちなみに河野通信の孫が、一遍上人。

14世紀前半、河野通盛のとき、道後温泉近くの小山に本拠を移しました。湯築城。

で、室町時代には伊予国守護となり、戦国末期まで、湯築城を本拠にして伊予を支配。戦国大名でもある訳です。

戦国期、河野通直が、その小山の周囲に二重の外堀を掘り、土塁を築いて防御を固めました。色んな勢力が攻めてくるのに備えた訳だが、たぶん一番の強敵は、長宗我部元親。

元親が土佐を支配し、四国制覇の戦いを進めたけど、最後に残ったのが河野通直。

結局、元親は河野氏を降伏させ、四国統一に成功したのか。河野氏は最後まで抵抗し、元親の四国統一は成らなかったのか。これは、専門家の意見も別れるところで、議論は尽きません。

高知県立歴史民俗資料館の展示でも、「四国の大部分を支配下に置いた」という表記に改められてます。ただ、湯築城の発掘調査で、岡豊城と同じ種類の瓦が見つかり、湯築城は元親に支配されたのではないか、という説も浮上。

まあ、前にも書いたけど、湯築城の説明パネルのどこを探しても、長宗我部の文字はまったく出てきません。松山人の間では、長宗我部に支配されたという歴史は、まったく存在しないかのごとく。

 

写真は湯築城のてっぺん。展望台がしつらえられていて、その上からは、松山の街が見晴らせます。右側、柵の向こうに松山城の山が見える。

河野氏は、秀吉の四国攻めによって滅ぼされ、秀吉配下の加藤嘉明が入国。加藤嘉明は、あの山に城を築いたので、ここ、湯築城は廃城。

道後温泉が観光地となり、たくさんの観光客が集まるようになって、この湯築城址も整備されました。

河野氏と長宗我部氏の戦いに思いを馳せ、夜明け前の松山を眺める。

さあ。仕事仕事!


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