プレート運動と石灰石と高知港〔5395〕2018/01/22
2018年1月22日(月)薄曇り
今朝もまだ暖かい。けど、日中は気温も上がらん予報。これから冷ようなります。関東でも雪になると言いよります。交通がマヒせんことを祈るばかり。
さて。昨夜、小学校、中学高校と同級生だったK君と、超久々に飲んでました。小学生の頃、家が一番近所だったK君。今は、大手セメント会社のエライテさんになってます。
石灰石とセメントの話、面白かった。地学が好きになった僕にとっては、興味深い話てんこ盛り。
で、土佐山とかで採取される高知の石灰は、実にグレードの高いものなんだそう。石灰石にも色々あって、純度が高いほど、良いのだとか。純度が高いものは、食品に、カルシウムとして使われたりする。セメントに使う石灰は、比較的純度が低くても大丈夫なんだって。高知の石灰は、セメントに使うにはもったいないくらいの純度と言うてました。
子供の頃、「高知県のくらし」とかで、高知の特産品に石灰石が挙げられていたこと、覚えてますよね。そう。高知は、フィリピン海プレートがユーラシアプレートに潜り込む際に陸側にムリムリっとくっついた付加帯でできている。遠く太平洋の彼方のサンゴ礁が、億という年月を経て北上し、高知の石灰になった訳だ。
石灰を一番使用するのは、大都会。セメント、使いますもんね。なので、高知で採れた石灰は、船で大都市圏へと運ばれる。石灰を焼成するのは、高知。たぶん、そうしないと輸送効率も悪いんでしょうね。と、言うことで、高知の港にセメント工場がつくられた歴史は、古い。
写真は、今朝、5時過ぎの高知港。弘化台からタナスカへ渡る橋から撮影しました。向こうの灯りは孕半島。セメント工場の灯りが見える。いや、正確にはセメント事務所か。
あそこにあった工場は、2010年にセメント生産を停止、今は事業所として、稼働してます。
2010年までは太平洋セメント土佐工場。高知工場ではなく、土佐工場。
たぶん、その歴史的経緯から、「土佐」工場という名称になったんだと思う。あそこにセメント工場が最初に作られたのは、なんと明治38年。日露戦争の頃だ。殖産興業で、日本の鉱工業が発展していく中、良質の石灰石が採れる高知に、工場が作られた。「合資会社土佐セメント」という会社が設立されたのが明治38年。明治41年に株式会社になり、そして昭和15年、浅野セメントに合併。浅野セメントは合併に合併を重ねて日本セメントになり、1998年に太平洋セメントになりました。
元々が土佐セメントだったので、その「土佐」を、工場の名称に残したんでしょうね。
セメントを焼成する温度というのは、とんでもなく高いんだそう。で、その温度で、産業廃棄物を焼き、再生処理する、というのもセメント工場の重要な役割でした。セメント工場がなくなる、ということは、そういう産業廃棄物焼却再生処理ができなくなる、ということなので、高知にとってはちょっと痛い、工場廃止だったんですね。弊社も、廃棄物を県外に持っていかんといかんなった、という影響を受けてます。
あの、孕半島が、浦戸湾の東西から張り出していることによって、南海地震の津波は、その勢いを削がれ、高知の市街地は津波の直撃から守られていると言います。浦戸湾出口が狭まっているのと、孕半島のお陰。もちろん浸水はするけど、ドカンと直撃、ではない。
その地形は、プレートの沈み込みによって形成されている。良質の石灰の恵みも、プレート運動で運ばれてきたものであるし、津波から守ってくれるのもプレートの沈み込み。
だけどそもそも、津波を発生させるのもプレートの沈み込みである訳で、結局僕らは、大自然の掌の上をゴロゴロころころ。