シキボウと高知赤十字病院〔5394〕2018/01/21
2018年1月21日(日)晴れ!
良いお天気。今日も暖かいですが、来週半ばにはまた、氷点下4℃とかになる予報が出てますね。風邪引かんように気をつけなくっちゃ。
今日は秦泉寺。ひまわり乳業の創業の地(大正11年に乳牛と山羊を飼い始めた)が、秦泉寺。僕が生まれた頃は、秦泉寺には祖父祖母が暮らしてました。中学校1年生になる直前、うちの一家も、南与力町の工場社宅から秦泉寺へ引っ越しました。
子供の頃、祖父の家へよく泊まりに行きました。当時の秦泉寺は田んぼばかり。秦山の山裾にある家から、久万川の堤防を散歩する祖父の姿が見えたと言います。住宅が密集する今からは想像もできない風景。
現在の航空写真がこれで、1961年~1964年、つまり、僕が泊まりに来ていた頃の秦泉寺の風景が、これ。見比べたら、なんか、もう、すごい変わりよう。あの頃、加賀野井団地の造成が始まっていたのか。泊まりに行っていた頃の写真を拡大してみる。そうそう。ここだ。南側には家もなく、田んぼばかり。東側の中秦泉寺の交差点が、狭い。交差点に農協の建物があって、バスが苦労して曲がるような狭いカーブになってました。今の広い中秦泉寺交差点からは想像もつきませんな。
で、今一度遠景。1961年と現在を見比べて、印象的なのはイオンモールでしょう。以前は、敷島紡績の大きな工場。たくさんの女工さんが働いていた、シキボウ。
今日の写真は、その場所。向こうにイオンの巨大な建物。手前は、建設中の高知赤十字病院。
そう。シキボウの敷地は広大で、イオンモールだけでは埋まりきらなかった。その埋まってなかった東側の土地に、今、高知赤十字病院の新しい建物が立ち上がり始めました。
現在の日赤病院は、新本町。高知駅の北側。あの場所、来るべき南海トラフ大地震で、長期浸水が懸念されているんですね。地盤が低く、柔らかい。
大地震が発生したら、その救助医療活動の中心にならなければならない赤十字病院が長期浸水では話にならない。
てな訳で、この場所に移転が決まり、工事が進んでいるという訳だ。
それにしてもシキボウ。でかい。いつ頃できたんでしたっけ。
戦後間もなく、1947年に米軍が撮影した航空写真が、これ。高解像度表示で見てみよう。田んぼの真ん中に広大なシキボウ。そう。戦前からシキボウはありました。
1947年の航空写真は、色んなことを教えてくれます。久万川。現在の流れと比較してみると、昔は、北に蛇行していたことがわかります。現在、旧河道は、水路となって川の痕跡を残しています。
土地条件図を見ても、旧河道の蛇行はよくわかる。そして、イオンや、新しい日赤病院が建つシキボウ跡地、実は、地盤が低い盛土地であることも、わかる。
そう。ここも、実は浸水するかも知れません。ただ、長期浸水にはならない見通しがあり、また、高知自動車道のインターチェンジに近いということもあって、移転候補地となった経緯があります。
新しい高知赤十字病院は、来年春、オープン。もちろん、それまで、南海トラフ大地震が起きてもらったら、困る。フィリピン海プレートには、なんとか、跳ねあがらんように頑張ってもらいましょう。
それにしてもこの界隈の風景の変わりようは、劇的。
僕がお祖父ちゃんちに泊まりにきていた頃、こんな風景を誰が想像しただろうか。こないだからやっておる「えんぴつで方丈記」の文章が、胸に沁みてきます。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。