歩道橋と時代の変化〔5382〕2018/01/09
2018年1月9日(火)雲は多いかな
こないだニュースで、2017年の交通事故死亡者数が、統計を取り始めた1948年以来の最少であった、というのをやってました。なかなか、感慨深いものがあります。まだ、車もそんなに走ってなかった戦後間もなく、昭和23年よりも、去年の方が交通事故死亡者数が少ないとは。
これこそ、様々な仕組み、方法が確立されてインフラが整備され、それに加えてルールができ、それを守る社会ができあがってきた証だ。
昨年の日本全国での交通事故死亡者数は3694人。統計を取り始めた1948年が、3790人。なるほど。
では、一番多かった時期は、というと1970年で、1万6765人。今の4倍以上。そうそう。あの頃は、危なかったね、確かに。
あの頃は自動車がどんどん増えた。そして子供も増え、人口は増加する。そんな時代だった。自動車の増え方、すごかったと思う。日に日に増えて行く感じ。なので、道路や信号機、横断歩道などの交通インフラが追いつかない。規則も追い付かない。また、うまく、運用できない。
当時は、バイクに乗るのにヘルメット要らんかったし、シートベルト着用義務もなかったし。早くからそうしとけば、そんなに死者も増えんかっただろうに、と考えるのは、まあ、今だから言える話だね。
その最悪の年から47年経って、ここまで減ってきた死亡者数。これから高齢者が増えるけど、AI技術を駆使した自動運転などが成熟すると、もっともっと減っていくと思う。
で、今日のテーマは歩道橋。横断歩道橋については、過去にも一度、書いたことがあります。
例えば電車通りで、信号(横断歩道)と信号の間が距離ありすぎて、不便に感じる所、ありますよね。堀詰とはりまや橋の間、とか、はりまや橋バスターミナルと菜園場の間、とか、宝永町の交差点を徒歩や自転車で南北に渡れんかったりした場合、とか。
全部、歩道橋が関わってます。堺町の歩道橋、四ツ橋の歩道橋、そして宝永町の歩道橋。歩道橋があるから、信号が、無い。
日本で最初に横断歩道橋がつくられたのは、1959年(昭和34年)と言います。名古屋の近く、西枇杷町の国道22号線なんだそう。交通量が多く、なんと、毎日のように事故が起きていたと言いますき、すごい。そこでつくられたのが「学童専用陸橋」。まだ、歩道橋という名前も無い時代。
その効果たるや素晴らしく、全国に歩道橋をつくる契機になったんだとか。
ちなみに、この歩道橋というもの、日本に独特の施設にかありません。外国には、ない。歩行者より自動車を優先するとはなにごとか、という訳だ。日本では、とにかく、激増する交通量と交通事故に対処するために考え出された苦肉の策、歩道橋だったのだ。
写真は、今朝、夜明け前の宝永町歩道橋。国道32号線の道路標示の左に、何やら、プレートが打ち付けられてます。
そのプレートに書かれている内容とは。
1970年3月
建設省四国地方建設局建造
歩道橋指針(1965)
製作 川崎電機工業株式会社
材質 SS41
以上。1965年、つまり昭和40年に、建設省から「歩道橋指針」というのが出されたことが、これでわかります。ネットで調べたけど、ネットには出てこない。
とにかく、その指針に基づき、昭和40年に完成した歩道橋だ。その年、日本は、交通事故死亡者数の最悪を記録する。
たぶん、他の歩道橋も、似た時期に建設されたもの。交通戦争と呼ばれ、規則やインフラが時代に追いついていってなかった時代の、歩道橋。
現代になると、さて、歩道橋というのはどうなのか。
信号機の制御も進歩した。何より、高齢化社会の中で、階段の上り降りはいかがなものか。人口も、これからどんどんと減っていくし。
そんな訳で、これから、老朽化した歩道橋の撤去が進んで行くのは、明らかですね。
時代の変化は、ときに、人を置き去りにする。やっと追い付いた頃には、時代はもう、変化している。変化に適応していくためには、どんどん、既成概念にとらわれず、自分が変わっていかなくてはならない。
ああ。今年のテーマだ。