13mの野面積み〔5357〕2017/12/15
2017年12月15日(金)薄曇り
昨日の朝、国道33号線を走って高知へモンて来ました。夜はまた忘年会。もう、幾日続けて宴会に出ているのかわからんなりました。それでも、朝は早くに起きだします。
ここは今朝、5時過ぎの高知城。昨日、松山城を撮影したのと同じ頃合い。松山城では、うつくしく切り立った打ち込みハギの石垣をご紹介したので、今朝は高知城の野面積み。13mの野面積み石垣は、かくも美しい。
ここは、高知城の、板垣退助像から石段を上がった杉の段。この壮麗な石垣の上が、三ノ丸。いかがでしょうか。野面積み。
穴太衆によって積まれたというこの石垣。最初に積まれ、完成したのは1610年頃と言います。穴太(あのう)は、琵琶湖の西岸、叡山坂本の南にある集落で、古くは渡来系の人々が住んだ場所。そこで培われた石積みの技術は日本一で、安土城の石垣を組むのに活躍したことでも知られる穴太衆。安土城でも使われた積み方が、この、野面積み。自然石を、そのままの形状で積んでいく。隙間には小石を詰める。いろんなテクニックや秘伝があるようで、全体的な見た目のバランスも重視しているんだそう。だから、美しい。
僕らにとって、お城の石垣と言えばこの風景。この野面積みを見ながら育ってきました。だから、ピシーっと直線上に切り出された石が隙間なく並ぶ切込みハギなんぞは、なんかわざとらしく見える。人工的過ぎて、無機質に見えてしまう。やはり、僕ら高知県人にとって一番親しみが持てるのは、この野面詰み。ですよね?
石材の中心はもちろんチャート。プランクトン。でも、説明板によりますと、砂岩や石灰岩も一部利用されているんだとか。この上の鉄門の土台石垣は左岸でできていて打ち込みハギ。たぶん、だいぶ後になって構築されたものなんでありましょう。
この角。昨日の松山城の石垣と同じだ。算木積み。長方形の石が、縦と横、交互に積まれた算木積み。色んな工夫がなされている石垣は、奥が深い深い。
実はこの三ノ丸の石垣、平成16年から21年にかけて、大改修工事が実施されました。調査の結果、石が割れたりして崩落の危険性があったから。
文献では、慶安三年(1650年)の豪雨、そして宝永四年(1707年)の南海地震の際に崩壊、修理したという記録があるそう。やはり、こんな高さに野面積みというのは、なかなか難しいのであります。でも、最初に積まれた状態が、今もこのように残っているところを見ても、最初の技術の高さが偲ばれます。すごい。
基本、このお城の高い石垣は野面積み。ここからお城をぐるりとまわったところに梅の段という場所がありますが、その北側の高さ10mの石垣上部が崩落し、修理をせんといかんなっちゅうという記事が、今朝の高知新聞に載ってます。こないだの、風が強烈だった台風21号で、石垣の上にあった樹木が倒れ、その根っこが石垣を掘り返してしまって崩壊。
これは、石を積んだ人の責任ではありませんね。そこに根をはる樹木を放置した、人災。
石垣の城で有名な丸亀城の、あの高石垣は打ち込みハギ。まあ、キレイなんですけどね。あの高さは野面積みでは無理だったでしょうし。
大阪城や丸亀城では、基本、打ち込みハギで、重要で目立つ場所、例えば城門などには切込みハギが使われています。だから、僕らにしてみたらちょっと、無機質。
この写真のように、美しい天守が見守る高知城の石垣は、野面積みがよく似合う。
これぞ、石垣。僕らの、石垣。13mの野面積み。