松山城の打ち込みハギと算木積み〔5356〕2017/12/14
2017年12月14日(木)晴れ
今、12月14日と書いて、赤穂浪士の討ち入りの日であることを思い出した。まあ、実際は旧暦なのでもっと雪の時期なんですけど。赤穂浪士と言えば三波春夫大先生の「元禄名槍譜 俵星玄蕃」。思い出すなり、口ずさんでしまいました。
時に元禄十五年十二月十四日江戸の夜風を震わせて・・・響くは山が流儀の陣太鼓・・しかも一打ち二打ち三流れ・・・・・
まあ、それは良いけど今朝は松山。昨日のお昼、南国市のしゃぶしゃぶ屋さんで、高知県中央酪農組合連合会婦人部総会、忘年会に参加した後、車でやって来ました。ビールも飲まずに忘年会。
高速道路の雪を心配してましたけど全然大丈夫。これで通行止めにするなよ。と、まあそんな話は置いといて、昨夜は松山城の南堀端に泊まってました。
早朝、4時半に起き出して走ってきたのは松山城とその周辺の市街地だ。松山城。どのルートから駆け上ろうかと思いましたが、まだ真っ暗な時間帯なので、一番灯りが点いてそうな、東雲神社からのルートにしてみました。正解。
東雲神社の石段や拝殿前は、真っ暗。真っ暗な神社にお参りし、ロープウェイの索道下の道へと出ると、そこの山道は、ところどころに灯りが照らされていて、登ることも問題ない。
そんな時間帯ですが、ぽつぽつと山へウォーキングに来る善男善女も。
寒い朝ですが、一気に駆け上がると身体は汗ばむくらい温まる。でもね、手先はシビ凍って痛い痛い。
標高132mの本丸まではもう少し。この左手には大手門があったそうな。撮影したかったのは、この石垣。うん。なかなか立派だ。
向こうの石垣の上は本丸で、太鼓櫓が見えてます。僕の頭の上、遠くに微かに見えるのが天守。なかなか良いアングル。
石垣を観察すると。花崗岩。そりゃあそうだ。瀬戸内ですきんね。ちなみに高知城の石垣にはチャートが使われてます。太平洋の彼方でプランクトンの死骸が堆積することによってできた、チャート。硬いので石垣にはボッチリ。
でも、瀬戸内海ではやはり花崗岩でした。細工しやすいですしね。
お城を見に行って、石垣の材質が気になるようになったら一人前のブラタモリストと言えよう。
で、この石垣は打ち込みハギ。ある程度成形した石を組み、隙間を小石などで詰めていく方法。完全に直線上に成形して隙間無く積んでいくのは切込ハギ。高度な技術を要する組み方で、この松山城でも天守台とかに使われている技法だ。
自然石の形状を利用し、組んでいくのが野面積み。一番初期に使われていた技法。高知城の石垣は野面積みが多く、特に、三の丸の石垣は野面積みとしては異例の高さ、13mを誇る。数年前の大改修でキレイになった、野面積み石垣。
さて。
この角の石に注目。どうだろう。長方形の石の長い面と短い面が交互ぬなるように組まれているのがお解り頂けるだろうか。強度を増すための工夫、算木積み。
と、まあ、様々な工夫、構造を楽しむことができるお城の石垣。
切込ハギの技法で組まれた石垣の上に建つのが、天守。その天守は、嘉永七年(1854年)に建てられたもの。幕末だ。落雷によって焼失した天守が再建された訳だが、これは異例中の異例。
天守などという平和の世の中に関係ない代物は、江戸城のように、焼失したら再建しないという方針だったのに。高知城は18世紀に再建されているけど、幕末にもなって再建されたのは、どんな理由があったのか。実に深い深い謎。石垣も切込ハギだし。
どんどんと進化するテクノロジーを利用する。
高知城の野面積みは、古い技法だけど、400年を超える年月、美しい姿を誇る。
要は、技術を利用する思想が大切。各地の城郭の石垣をみると、その城の歴史、その城に対する思いなど、色んなことが妄想できて、楽しい。