田中伯爵かも〔5317〕2017/11/05
2017年11月5日(日)良いお天気だ
素晴らしいお天気の日曜日。久し振りに、こんな日曜日になりました。そこで早朝から、南嶺ラン。久々の南嶺ランを、心地良く敢行して参ったぞよ。このところ続いた宴会、飲み会、懇親会で身体に溜まった毒素を、汗と一緒に発散してきた、朝。
まずは潮江天満宮。
本殿の裏手、摂社である大山祇神社の参道に、たくさんの椎の実が堕ちていました。秋深し。どんぐりや椎の実の季節。
昔の日本人は、そういった堅果を主食に近い存在として食してました。常緑広葉樹、落葉広葉樹が日本を覆っていた時代。秋になると大量の木の実が落ちてきて、食べられるようになっていた。稲作以前の貴重な炭水化物だ。保存もきくしね。
最近の研究では、今思うほど貧しい食生活ではなく、その人口に見合った、多様な食生活が営まれていたのではないか、とも言われます。
そうそう。ベストセラーになったサピエンス全史に、農業が起こる以前の、そんな時代の人類の幸せについて書いてましたっけ。
ともあれ、大量の椎の実、誰か拾って食べるんでしょうかね。そう言えばしばらく食べてないぞ、椎の実。
写真は、その潮江天満宮の広い参道脇の、玉垣。この玉垣には、ご寄進された年号などが刻まれてません。いつのか、わからん。でも、その古さ加減から言うて、明治か大正の頃でしょう。金額が「金捨圓」ですきんね。で、そこに刻まれた名前を読み解いていくと、浦戸町のDさんとか、潮江村のKさんとか、なんか、今もその地区に多かったりする苗字が見受けられて、楽しい。そしてこんな名前もありました。
田中光顕。
住所は東京だ。
これ、かの、維新の志士にして明治政府で活躍、宮内大臣までつとめた田中光顕伯爵なのか?
こんな場所にそんな有名人が?しれっと?
同姓同名ということも、考えられます。でも、あの田中光顕だろうと想像すると、楽しい。
明治の元勲。色んな施設に、たくさんの寄付をしたでしょう。代表的なのは、桂浜の龍馬像か。あの像の建設に際しては、田中はかなり尽力していると言います。たぶん寄付も。
そんなこんなの寄付、寄進にも、あまり自分の名前を出してませんよね、田中さん。ちょっと、ゆかしい。
こんなところに、彼にとっては些細な寄付、捨円也の玉垣がここにある、というのは、良い話に見えます。なんかね。ちょっとね。田中光顕さんに関わりのあるう潮江天満宮の氏子さんが、「ちょっと頼みますぞね、ちっとでかまんですき。」などとお願いし、田中光顕伯爵が「しかたないのう。適当にやっちょいて。」と応じた光景が眼に浮かぶ。
まあ、そんな妄想を掻き立てられる玉垣でした。
今朝はお参りを済ませ、筆山から高見山頂、鷲尾山頂を一気に文字どおり縦走し、神田へ駆け下りました。
良い、秋の朝。