薬師堂と不動明王と榎〔5298〕2017/10/17
2017年10月17日(火)秋雨
しとしとと降り続く秋の雨。秋雨前線停滞中だ。
ここは与力町。ひまわり乳業の本社があった場所を、東側の交差点北側から撮影してみました。竹下病院さん、完成して、新しい病棟で業務を開始しております。
あの場所に「土佐乳業株式会社」が設立されたのが、昭和21年5月。戦前は愛宕町に処理場を持っていましたが、戦後になって法人化し、ここに工場を建てたのでありました。
その後、変遷を経まして、南国市に大きな工場を建設、本社もそちらに移転して現在に至ります。
僕は、ここにあった工場で生まれ育ちました。なので、この界隈は、子どもの頃の遊び場。右手向こう側に見える公園、松淵川公園がメインステージだったあの頃。
記憶には無いのですが、僕が生まれた頃は、ここを東西に流れる堀がありました。松淵川という、堀川。その堀川端に、この祠がありました。
現在は「不動明王」という木札が掲げられているので、お不動さんだ。
ところが。
手元に、戦前の住宅地図があります。昭和4年に、「高知地理学会」という会社が作成した住宅図の「堀詰南部方面」というやつ。それを見ると、ここに鎮座ましますのは「薬師堂」。薬師如来が鎮座してます。どんな理由と変遷があったのか知らんけど、いつの間にか、お薬師さんはお不動さんに入れ替わっていました。こんなこと、よくあること。日本ではね。
お不動さんの横に、エノキ。榎。
戦前の住宅図には「榎ノ木ノ大樹」と描かれているので、かなり大きな榎の巨木がここにあったんだろうと思う。燃えやすい樹木ですき、戦争で焼けてしもうたんでしょうかね。今は、たぶん、その子孫となる榎が、こんな感じで生えてます。
この南北の通りは、中の橋通り。現在はここから南へ、鏡川の堤防に突き当たっている道路。ところが、昭和4年の住宅図では、こっから南に道路は無い。南側から北へ延びる細い路地はあるものの、道路はここで突き当り。これも戦争で焼けた後、道路になったんだろうか。
そう思って戦後の風景を調べてみた。お馴染み、地理院地図の航空写真。
単写真で昭和22年10月撮影のを見てみたならば。おう。やはり、こっから南に道路は無いではないか。まだ、復興途上で建物もまばらな風景。松淵川の南には、まだできたばかりの「土佐乳業」だと思われる建物も、見える。産声をあげたばかりの土佐乳業株式会社は、ここで成長して高知牛乳食品株式会社となり、ひまわり乳業株式会社となって南国市物部に本社と工場を建て、現在に至る。
こんな街中に牛乳工場があったとは。今からは考えられんですよね。
昭和27年の航空写真を見ると、道路は南へ伸びて堤防まであるので、戦後の復興都市計画でてきた道路なんでしょうな。
堀川は道路と駐車場になり、宅地も道路になり、牛乳工場は病院となり、薬師堂は不動明王となり、榎ノ木ノ大樹はその子孫に。
世の中の遷り変わりの中で、ひまわり乳業も、変化しながら成長してきました。これからも、健康・自然・地域にこだわったものづくりという基本は決して変えることなく、どんどんと変化しながら成長していく。そんなひまわり乳業でありたいと思っています。