寺石正路先輩と土佐史談会とブラタモリ〔5261〕2017/09/10
2017年9月10日(日)良いお天気だ
秋なのか夏なのか。風は着実に涼しくなってますが、それでもね。日中は暑い暑い。山を駆け上がると汗が滝のよう。
今日は午前中、筆山から南嶺。
筆山という山は、藩政期には山内家の墓山とされ、山内家ゆかりの大きなお墓がたくさんある山。ですが、メインの山から少し脇の山々へ入っていくと、普通サイズの古い古いお墓もたくさんあります。特に、小石木という一角の山にはたくさんのお墓。得月楼さんの専用墓所へつながる小径もあったりする。
うちのお墓は、田野町にあります。安芸郡田野町。そしてこの小石木の山にも少しだけ、あります。たぶん、田野から高知へ出てきているうちに、便利が良いので小石木にもお墓を作ったんではないかと推察する。実はもう、空墓になってはいるんですけどね。
この、たくさんの墓地が並ぶ山には、昔から墓守さんがいらっしゃいます。墓の掃除などを一年を通じてしてくれている墓守さん。ナントカ霊園みたいな近代的なのでなく、いわゆる墓山の墓守さん。木々に覆われた山中なので、掃除とか草刈りとか、結構大変だと思う。
山の中腹にある、墓守さんの小さな建物では、花や線香を売っており、お墓参り用の竹箒を貸してくれ、井戸でお水も汲んでいけます。
まだお彼岸には早いので、その墓守さんのお店に駆け上がったときには、墓守さん夫婦は山の草刈りに出てました。携帯電話の番号が書いてあったので電話すると、「今から降りて行きますき」とのお返事。
大汗をかいて駆け上がってきたので、しばし休憩だ。
そこからうちの墓所の方を眺めると、緑の中に白い墓石がひとつ、浮かび上がっていた。
その墓石には「寺石正路」という文字が見えるではないか。
そうか。かの、寺石正路さんの墓所は、ここにあったのか。ここには子供の頃から100回以上はやってきていると思うけど、気付きませんでした。
こうやってここで墓守さんが降りてくるのを待つことがなければ、見つけることもなかったと思う。たくさんお墓があるのに、寺石正路さんの墓石だけが浮かび上がっているのが、不思議な光景でした。
寺石正路さんは慶応四年、九反田生まれ。九反田の海南私塾分校に学び、東京の旧制開成中学校から東京大学予備門へ。勉強、できたんだ。とんでもなく。
その東京大学予備門の同級生に、正岡子規や南方熊楠がいたというから、すごい。
結局、身体を壊して高知へ帰郷、教員としての生活を始める。そこからが、すごい。
宿毛貝塚を発見、紹介したり、郷土史家、民俗学者、人類学者として多くの仕事をし、数々の業績を残された、土佐の偉人。教え子に平尾道雄さんがいたりしますきんね。土佐の郷土史という分野では、偉大なる先駆者だ。大正15年には、僕も所属する「土佐史談会」の会長もやってくれているんですね。
で。
実は、この9月30日(土)夜のNHK「ブラタモリ」で、高知編が放映されることが決まりました。あんなことやそんなことが諸々あって、不肖わたくしが案内人の一人を務めさせて頂いておりますが、その肩書は「土佐史談会理事」なんですね。
寺石先生のような偉大な先人の築きあげてきた歴史に傷をつけないよう頑張ったかどうかは別にして、皆さん、ぜひ、ご覧になってみてください。
今日、偶然、緑の中に浮かび上がる土佐史の大先輩の墓石をみつけたのも、何かのご縁なのか・・・