桜井町と馬詰親音〔51〕2003/06/06
2003年6月6日(金)快晴
6月だというのによく晴れます。心も身体もすっきりしますね。
今朝は、市内江の口川方面です。以前紹介した「一文橋」より、西方を望んでいます。江戸時代には、渡るのに一文必要だった賃取橋とのことで、この写真の右下隅の欄干に寛永通宝の一文銭があしらわれちょります。
写真左手の岸は「鉄砲町」と呼ばれておりました。藩政期初期に、ここへ鉄砲足軽組を住わせたことに由来します。今では、手前の辺りが「宝永町」、向こうの方が「桜井町」という町名になっております。現在の地名もそれぞれに由緒のある美しい名称です。
江戸時代後期の寛政年間、土佐藩で大活躍した政治家に、馬詰親音(うまづめもとね)という偉い人物がおります。甘藷栽培の技術を指導したり、砂糖の製造技術を導入普及を図ったり飢饉用の米蔵を作ったりしました。なかでも、近江の国から技術者を招いて大規模な井戸を堀り、城下の飲料水不足を解消した事業は有名で、馬詰親音の名を不動のものにしています。その時掘った井戸の側に桜樹があったことから「桜井」と称し、それが現在の「桜井町」の町名由来となっちょります。