駅伝考〔5080〕2017/03/13
2017年3月13日(月)曇り
満月が薄雲の向こうに。
今朝、4時過ぎの鏡川。天神橋の上から撮影しました。右手の明るい場所が緑の広場で、その向こうが山内神社の森。その向こうに柳原橋。
一昨日のろうきん駅伝大会は、この風景の中で開催されたのであります。この、天神橋と柳原橋の間の空間。ここの、周回。
緑の広場がタスキ中継地点であり、ゴール地点なので、皆、そこにたむろしてました。あそこからだと、柳原橋から鏡川南岸、そして天神橋を走る選手が、見れます。これは良い設営だ。
陸上競技場の周回みたいに味気ないものでなく、自然の中の周回。自然の中なのに、皆がどんな走りをしているのかも、よくわかる。僕らは、目立つ黄色いユニホームで統一しちょったので、遠くからでもよくわかりました。
僕の駅伝歴は、3回。1回目は、今から12年前。2005年2月13日。あしずり駅伝に、高校の同級生チームで出場したのが最初だ。あの頃僕は、速かった。いや、今と比べての話ですが。体重も今より5kgは軽かったし、何より、結構な距離、走ってました。なので、準エース区間を任されても、なんとか形にはなっていた気がします。
で、駅伝の楽しさと苦しさを知った訳だが、問題は、2回目。
このにっこりでも、幾度か書いてきました。今から10年前の、鏡川流域駅伝。もう、10年前になるのか。僕の走った山登り区間は、5.1kmですが、標高差330m。最初に飛ばしすぎ、最後の方は脱水症状でアンデルセン状態。薄れた記憶の中では、一歩踏み出しても脚が立たない、そんな感じでなんとかかんとか次のランナーにタスキを渡したのでありました。
その大会は、それが第一回。鏡村や土佐山村が全部高知市になったのを記念しての大会やったと記憶します。
倒れこんだ僕に、水を持った係員が近寄ってきて「大丈夫ですか?」。
「大会で準備している救急車を呼びましょうか?アレ?電波が入らん。」
そう。その中継地点は携帯電話が圏外だったのであります。連絡手段は携帯だけ。ああ。電波が入らんのか・・・・
そんなことを思いながら、日陰でしばらく寝転がっていた、あの日の記憶。
あれ以来、レースに出るのはやめていた、私。ムキになる、この性格が、災いしたのでありましょうか。
でも今回は社員さんからの要請なので、長い長い沈黙を破っての出場となったのでありました。
ムキになるのはやめよう。ムキになっても大丈夫になってから、ムキになろう。
てな訳で、最後の数十メートルだけ、全力疾走しました。
ああ。苦し楽しかった。
やっぱし、駅伝も、エイもんだ。
一人でゆっくりじっくりのったりまったり走るのも、それはそれで楽しい。それが一番好きな私だ。が、しかし、駅伝も、苦し楽しいことを、思い出しました。忘れていた、この感覚。