弥生集落ができた理由と乳業工場ができた理由〔5081〕2017/03/14
2017年3月14日(火)曇り
本社棟2階の窓から見た風景。わかりますでしょうか。香長平野、間もなく田植えの季節が訪れる。日本の中でも、極めて早い部類になる田植えは、この平野で始まるのであります。
この南には、弥生時代草創期から末期にかけてという長い長い期間、大きな集落が存在しました。田村遺跡。南四国最大級、という言い方をされますが、時期によっては、日本有数の重要な集落であったかも知れません。
何故、この土地が選ばれたのか。
地質的に見ると、一つの理由がわかります。最近バージョンアップされた地理院地図を見てみよう。地理院地図の情報リストから主題図を選び、表示してみるとこんな感じ。
この、黄土色の部分は、凡例によりますれば「扇状地」。「河川が山地から平地に出た地点に砂礫が堆積してできた地形」という「扇状地」。
土地条件図で、高知県の沿岸や、他県の沿岸を見てみても、この扇状地ほど、広くしっかりした扇状地は、ありません。This is the 扇状地、てな感じ。
高知市の市街地や周辺の市街地調整区域は、「海岸平野・三角州」。凡例では「海水面の低下によって海底が陸化した平坦地や、河口部にあって砂や粘土等が堆積してできた平坦地」となってます。
で。古代、土佐のまほろばとなった国分周辺はどうかと言うと、「谷底平野・氾濫平野」。つまり「河川の氾濫によって形成された低平な土地。」
さて。
扇状地は、海岸平野よりも氾濫平野よりも、やや、微高な土地になってます。弊社のある場所は、海岸から数キロしか離れてないですが、標高は12mある。皆、もっと低い土地と思ってますね、この界隈。
田村の、弥生集落が形成された場所は、もっと海岸に近いですが標高は10mくらい、ある。で、物部川の支流が網の目のように流れ、水は豊富。
つまりだ。
氾濫原ほど低地ではないが、水が豊かで、土地が肥えている。これが、数百年の長きに亘って、弥生集落が形成され続けた最大の理由でありましょう。意外にも、水害にも強かったと思われます。水に恵まれながらも水害に強い。これは魅力的な条件だ。
この図を見ると、赤い、左右に更新世段丘がある。山田の台地と野市の台地。ここに農地ができるのは、灌漑技術が発展してから。
やはり、この香長平野が穀倉地帯になったのには、地政学的な理由がありました。
もう一つ言えば、畜産。
この、弊社がある界隈は、ヤギや乳牛を飼うのに適した土地とされ、昭和以降、高知では一番の酪農地帯になったのであります。これもやはり、水に恵まれていたこと、牧草を育てるのに条件が良かったこと、などが理由となりましょうね。
弊社は、戦後、高知市南与力町に工場を建設しました。結構、地下水も良かったんですね、あそこは。しかし市街化が進み、移転する必要性が高まってきて、昭和40年に、この場所に工場を建設することになりました。
理由は簡単で、この界隈が高知一の酪農地帯であったことと、地下水が豊富であったこと。もう、ここしかない、てな感じで工場が建てられ、現在は本社にもなってしまった、という訳です。
この、日本一早い田植えが行われる風景には理由があり、ここに乳業工場があるのにも、理由があるのでありました。