繁藤の神武天皇、天照大神と持統天皇〔5042〕2017/02/03
2017年2月3日(金)晴れ!
そんな訳で、昨日は飲みました。12:30に飲み始めて、家に帰り着いたのは22:30。こうやって書いてみると、10時間も飲んでたことが判明します。高知の酪農家さんの将来は、きっと明るい。
で、今日は大豊町。昨日は酪農家さんでしたが、今日は弊社の青汁「菜食健美」に使われる野菜の生産農家さんとのミーティング。今年の契約品目と契約量を決める、重要なミーティング。もちろん、栽培における注意点等も確認します。
今年から、天坪と怒田の2箇所で、1日で済ますことになりました。で、まずは天坪。あまつぼ。大豊町天坪ですが、しゅっと西は香美市との境界。かつての天坪村は、現在の大豊町と香美市にまたがってありました。
天坪(あまつぼ)というくらいですき、高知県でも降水量が多い地点として有名。国鉄天坪駅は、今はJR繁藤駅と名称が変わりました。
その繁藤駅から国道32号線を少し高知方面に戻ると、川沿いに、繁藤小学校。2013年3月から休校中の、繁藤小学校。その校門を入ってすぐ、左手に石段。その石段を上り詰めると、以前にも一度ご紹介したことのある、神武天皇像。戦後の民主教育の中で、紀元節を大切にしようと訴えた校長が居たのが、繁藤小学校の溝渕校長。紀元節校長として全国的に有名であった、という話は、以前にも書きました。
生産者ミーティングに向かう途中、その石段を上がって、撮影してきました。真っ青な冬空に屹立する神武天皇像。
ところで。
こないだ、淡路島南東に浮かぶ沼島が、古事記に出てくるオノゴロ島である、という説を書きました。その際、古事記、日本書紀は、日本という国家のアイデンティティを示すために作られたもの、てなことも書いたと記憶します。
倭国は、663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に完敗する。大和政権は、これでパニックになったにかありません。巨大帝国唐が、今にも攻め込んでくる、と。そこで、とにかく唐に対して服従の姿勢を取る。古事記、日本書紀によって日本のアイデンティティを立て直す。
律令制度をそのまんま取り入れ、ちゃんとした国家ですよ、と、アピールする。
そんな中、女帝、持統天皇が即位。天武天皇の皇后であった女性。
実はその当時、唐も、中国政権としては始めて、女帝が即位していました。則天武后。唐の高宗の妻であった武則天は、とにかく優秀であったと言います。唐という国を建てたのは鮮卑族の拓跋部。遊牧民族で、実力主義。男尊女卑の風が希薄であった。で、高宗が存命中から、「皇帝」「皇后」という名称を「天皇」「天后」と改めていたんですな。「天皇」「天后」の時代に白村江の戦いがあり、その後、日本は天武天皇の時代になって「天皇」という称号を使うようになる。
そう。今、日本が「天皇」という称号を使うのは、武則天の発想が起源になっている可能性が極めて高いんですな。
天武天皇が亡くなった後、女帝、持統天皇が即位し、その後も四人の女帝が即位することになるのは、唐で、女帝が活躍したことと、非常に深い関係がありますよね。これはもう、間違いない。それが当時のグローバルスタンダードであった、ということで、国際的に認められたい日本も、それに倣ったのかも知れません。
で、古事記。
最近読んでいる、出口治明さんの「全世界史」。ここまで書いた話も、その出口さんの説の受け売りなんですが、実に、まったく、納得できる話なんですね。そして出口説では、天照大神は、完全に、持統天皇をモデルにしている、とのこと。持統天皇が天皇位を孫の文武天皇に譲ったのは、天照大神と孫の、つまり天孫の瓊瓊杵命との関係と同じ。そう言われてみると、完全に、そうだ。古事記、日本書紀が成立する過程の時代は、まさに持統天皇の時代だし。
則天武后をモデルにして持統天皇が生まれ、持統天皇をモデルにして天照大神が生まれる。
この話は、実に、まったく、説得力があります。
そんなことを、この、神武天皇像を見上げながら考えたのでありました。