ホノギ図で蘇る歴史〔4949〕2016/11/02
2016年11月2日(水)晴れ
今朝は冷えました。10℃近くまで冷えたんではないでしょうか。自転車に乗ると、手が冷やい。
こないだ、高知新聞に、南国市国分に住む有志の皆さんが、長宗我部地検帳に記述され、現在もホノギ(小字)名として残る地名の説明板を立てた、てな記事が載っちょりました。素晴らしい。
今朝は、その説明板を探しに行ってきました。
写真は、国分寺前の道を西進し、道なりに南下した道沿い。しゅっとわかりました。
長宗我部地検帳
二階(二階孫右衛門)
この界隈のことを記述した長宗我部地検帳の内容から、ここには、毛利氏御用の廻船商人で、官途「藤左衛門尉」を与えられた二階氏の一族が住んだ場所、との類推が、説明板に書かれちょります。そして、ホノギ図。
ホノギ図を見ると、この東が「市場」、その東が「風呂ノ前」で、その東が「市頭」。
「市場」と「風呂ノ前」の北が「堂ノ前」で、現在の国分寺の正門のところ。
そこから真っ直ぐ南へ行くと「国分ノ前」「町頭」。その東に「東古市」。
往時の、門前町の姿が見えてくるではありませんか。現在は田んぼが広がる、国分寺の南側。そこに、市街地が形成され、市場もあった。
「風呂ノ前」というのが気になりますな。お寺の寺僧が入浴するお風呂が、この北側にあったのでありましょうか。
写真では、向こうの森が、国分寺。お四国遍路、29番札所。
国分寺というくらいで、もちろん、奈良時代、聖武天皇の頃に行基上人によって開基された、という伝説を持ちます。天平11年(739年)という説や、天平9年(737年)という説もあるが、聖武天皇による国分寺建立の詔勅がだされたのが天平13年(741年)なので、本当はそれ以降でありましょう。どちらにしても、その時代であるのは間違いなく、また、当時からこの界隈にあったことも事実にかありません。
発掘調査で、弥生時代の竪穴式住居や貯蔵庫が出てきたと言いますき、ここに国分寺が置かれる前から、国分川に近い集落として栄えてきたことは、わかります。
地理院地図の土地条件図を見ると、国分川の旧河道が、このしゅっと東、国分寺の南を流れていたことがわかります。しかし、ホノギ名を見ると、そこを国分川が流れていたのは、ここに町が形成されるもっと前のことだったのでしょうか。
ここからは、西に、岡豊山が見えます。近い。
国分寺の門前町が栄えた後、中世から戦国期の戦乱で、お寺も焼失したりしました。長宗我部氏が戦国土佐の覇者となってくると、岡豊山を中心に、栄えるようになってくる。
ここに「古市」というホノギがある、と言いました。国分寺の近くに市場があったのが、長宗我部国親、元親の時代になり、新たに岡豊山に近い場所に市が形成されるように、なる。新市。
その「新市」は、今も田んぼの畦道や田んぼの形状に名残を留め、岡豊城ニノ丸からはその痕跡を見ることが、できます。
この写真の、説明板と国分寺の間にあった「市場」は、いつしか、ここから南西、岡豊山の東にできた「新市」にとって代わられる。
そんな歴史の流れも、ホノギ図を見るだけで、生き生きと蘇ってくるのであります。
この説明板を立てることを思いつき、実行された皆さんに、深い感謝と敬意を表したいと思います。