文化の日に、江戸時代の文化について考えた〔4950〕2016/11/03
2016年11月3日(木)文化の日晴れ
良いお天気の文化の日。
朝、秦泉寺で少し用事を済ませてから、RUN。秦泉寺から、ながおか温泉まで。14kmの心地良いRUNでした。この季節が実に良い。走るのに、一番心地良い季節かも知れません。今日は山中ではなく、国分川沿いの、古くからの道を走ってみました。
ところで。
江戸時代、江戸の町から四方へと伸びた街道。それぞれの街道の、最初の宿場町と言いますと。一番規模が大きかったのは、こないだもご紹介した品川宿。東海道の、最初の宿場町なので、日本一繁華な宿場町と言うてもかまんでしょう。甲州街道は内藤新宿で、中山道は板橋宿。そして日光街道・奥州街道の千住宿。それぞれ、江戸から近いので、江戸で出発した人がそこで一泊、てなことはそんなになかったと思います。近いですきんね。
それよりも。その宿場が栄えたのは、江戸の人々が遊びに来たから。
江戸の真ん中ではなくて、地方へ向かう街道の最初の宿場町。そこに、人は集まった。
ご承知の通り、江戸で、公認の遊女が置かれたのは吉原だけ。では、吉原でしか、そんな遊びができなかったかと言えばそうではなくて、宿場町には食売女というのを置くことが、これまた公認されちょりました。食売女。めしうり女、と読む。通常は飯盛女、と呼ばれることが多かった女性たち。これは、表向きはともかく、幕府から遊女として公認されちょったとも言えましょう。
江戸の男たちは、身分を問わず、江戸から近い宿場のそんな場所へと出かけ、遊んでいたのでありました。我々の先輩達も、やるもんです。一番規模が大きかったのはもちろん品川宿で、藩政期中期頃に公認されていた食売女の数は500人だが、たぶん、その3倍くらいは居たと思われます。
さて。
なんで、こんな話を書いてきたのか。
江戸の、上に書いたような状況は、地方では、土佐では、どうだったのか、という話。
ここは布師田。布師田小学校の東、布師田ふれあいセンターの前から、高知の市街地方面を撮影しました。
ここは、江戸時代、参勤交代する山内の殿様が立ち寄った御殿があった、場所。
このにっこりでも幾度か書いてきたように、土佐藩の参勤交代は、最初は海路であった。それが、陸路と海路を組み合わせたものになり、そして、享保三年(1718年)から北山越えになりました。
そのルートになると、布師田を、通る。
で、天保の頃から、高知のお城を出た藩主は、ここ、布師田の御殿で正装を解き、旅支度を整えて出発することになりました。江戸から帰ってきた際は、ここで一泊し、正装して行列を整え、城下へと入っていく。
そして、この布師田は「送り番所」でもあって、馬継の馬や駕籠などが常駐。
以上の機能は、品川と、一緒だ。そう。品川宿や内藤新宿、板橋宿、千住宿も、馬や駕籠が常備され、参勤交代の行列が宿泊した。
ここ、布師田も宿場町として栄え、旅館や料亭が立ち並んでいた、と言います。明治になっても、国分川に屋形船を浮かべ、人力車が列をなす賑わいを見せていた、という布師田。
ここに、上記の、品川宿などにあったような機能が、あったのか。
たぶん、土佐史学の先人達は、そんなことの研究もしていると思います。一度、調べてみんと、いけません。ここは、高知の城下からの距離で言えば、江戸城下から品川宿の距離と、そんなに変わりません。
この布師田が栄えたのは、旅の人々だけでなく、高知の城下の人々が遊びに来たから。品川に、江戸の男達が遊びに来たように。
そんな「文化」を調べてみたい、と思った、文化の日。