暦の妄想〔4948〕2016/11/01
2016年11月1日(火)晴れ
昨夜は降りましたが、今朝は晴れています。少し風が肌寒い。今日から11月だ。
写真は今朝、5時半過ぎの潮江天満宮。今日は月初、ということで、早朝から参拝客が入れ替わり立ち替わり、訪れていました。月初、その月が安寧に過ごせることを願い、お参りする方も多いようです。
月初だからなのか、早朝にもかかわらず、いつもこの時間帯には閉まっているお札販売所にも明かりた灯っておりました。いつもより明るい早朝の潮江天満宮拝殿前。
月初。
かつては、旧暦、つまり太陰暦で生活が営まれていたので、月初は、必ず新月。月が立つ日で、月立ちで、ついたち。ついたちは朔日で、「朔」は、読んで字のごとく、月が元に戻る、ということですな。明治になるまでは、月初は新月で、闇夜であった。
暦のあれこれが、人々の生活リズムと融合していた、そんな時代。
明治になってグローバル化の流れの中、太陽暦が採用されるようになる。それはそれで便利なのだが、太陽暦の弱点は、月の始まりとか、月の数とか、そういった自然現象とはまったく関係のない月日になってしまう、ということ。今日は11月1日ですが、特別、それといって何か自然現象が存在する訳では、ない。
太陽暦の便利なところ。それは、もちろん、一年という単位で考えた時に、毎年、同月同日であれば必ずお日様の位置が同じである、ということ。農業を営む場合など、便利ですよね。また、一年のサイクルが、完全に同質化でき、固定できる、ということ。
ここで考えました。
それならば。別に、わざわざ12ヶ月などという月に分ける必要もなかった訳だ。つまり、もし西暦というものがあったとしても、今日は西暦2016年306日、で良いことに、なる。その方が、なんか、使い易い気もします。
でもやはり、概ね30日くらいで区切った方が、なんとなく便利、ということでしょうかね。元々は月の満ち欠けのサイクルを、太陽のサイクルに融合させた結果、ということでしょうか。
その辺の無理が、月初なのに、なんか、始まりのような気がしない、という感覚につながっちゅうのかも知れません。
太陽の運行を元に考えるなら。
どうせなら、冬至の日をその年の最初と考える。それが一番無理のない考え方やと思います。で、便宜的に西暦を使うとして、2017年1日を、現在の2016年12月21日とする。
そして、それから1日、2日・・・・364日、365日とする。基本を冬至にすると、一年は、太陽の有り様に完全に連動するので、なんか、気持ちが良いのではないか。
しかしまあ、朝っぱらから、また、月初から、やちもないことを妄想するもんだ。潮江天満宮にお参りする多くの人々を見ながら、現在の、何の意味もない「月初」について違和感を感じたので、こんな妄想をしてみました。
最先端の物理理論で出てくる「並行宇宙」というものが無限に存在するのであれば。間違いなく、一年を通し番号で日付にしている世界、というのがあるはず。
そんな世界に暮らす人々にとって、今日は、別に特別な日ではないでしょう。今日は2016年306日。いや、冬至を元旦とすれば、2016年316日だ。
元旦の「旦」は、読んで字のごとく、お日様が地平線に昇る姿。であるならば、その大元、はじまりの日、元旦は、冬至こそが相応しい。今日は、2016年316日、ということにしてはいかがでしょうか。ナイスなアイディアだと思いました。
ああ。妄想が止まらない・・・