北光社と日本シリーズ〔4944〕2016/10/28
2016年10月28日(金)薄曇り
今日は、バスに乗って広島へ向かっております。会合出席のため。
昨夜の日本シリーズ、とても良い試合ではありました。が、日ハムに王手をかけられた広島カープは、明日、広島に帰っての正念場の試合となります。
せっかく広島へ行くのに、残念ながら観戦はできません。が、25年振り優勝に沸く広島の街を体感できるのは、偶然の日程ですが、嬉しいこと。昨日勝ってれば、もっと嬉しいんですが・・
さて。
写真は堀川沿い。以前に何度かご紹介した、「北光社移民団出航の地」のオブジェがある、堀川の北岸。最初にご紹介したのは2003年12月7日。もう、13年も前になるのか。
あの頃から比べると、川沿いの堤防など、随分と綺麗になりました。桜の樹も、文字通り年輪を重ねてきちょります。
おさらいしちょきます。
この写真右端にある説明板から。
「北光社は、明治30年、北海道北見(当時のクンネップ原野)に新天地を開くため、坂本直寛、沢本楠弥、前田駒次ら高知県の有志によって組織され、この地の向かいにある高瀬屋(当時、旅館)に開拓移民の募集事務所を開設し、応募者を集めた。後略・・」
この説明板は、昭和61年に、高知市、高知ライオンズクラブ、高知市・北見市姉妹都市提携委員会によって、立てられたもの。
この地は、藩政期から、高知の城下、海の表玄関として栄えた場所。
坂本直寛は、ご存知の通り龍馬さんの甥だ。自由民権運動で活躍した後、キリスト教の布教につとめ、そして北海道に渡って開拓とキリスト教の伝導に尽くした、偉い人物。
龍馬が北海道開拓に強い熱意を持っちょったのは、皆さんご承知の通りなので、甥御さんがその遺志を継いだという形になりました。
もし、龍馬が暗殺されなかったら。北海道で活躍していた可能性は、高かったと思います。
で、近年きれいに整備されたこの堀川沿い。オブジェの左手向こう側に、石造りのテーブルと椅子が置かれ、その前に新しい碑が置かれておりました。刻まれた文字によると、できたのは去年の11月。一年前にこんなのができちょったとは、知りませんでした。そこに刻まれた文章をご紹介します。
「北見石碑文について
明治30年4月4日、50家族350人が北見に向けてここから出航しました。貨物船で雑居寝28日間の船旅は、流行病で死亡する者が出るなど辛苦の日々で、到着した北見原生林で最初の鍬入れも開墾ではなく、長旅の途上で亡くなった愛児や仲間たち35人を埋葬する涙の鍬入れでした。さらに、原生林と熊笹を切り拓き、ようやく開墾した土地も長雨による洪水で農作物共々流出し、餓死する者や諦めて逃げ出す者が続出するなど、筆舌に尽くし難い苦労の連続でした。
このような苦難を高知県の人々の、汗と涙の結晶によって北見開拓が成し遂げられました。」
この碑文、北光社と北見開拓がいかに苦しい者であったのかを我々に伝えてくれます。
ほんの100年ちょっと前のこと。先人の、我々には想像もできない苦労、努力によって、今の繁栄、平和が成り立っている、ということを忘れてはいけない。
先人達の筆舌に尽くしがたい苦労の上に、平和に繁栄する北海道。そこに北海道日本ハムファイターズができ、原爆からの復興の願いによって設立された広島カープと、日本シリーズで素晴らしい試合を繰り広げる。
良い、日本シリーズです。