高知鉄道の鉄橋〔4934〕2016/10/18
2016年10月18日(火)晴れ
雲は多いものの、晴れちょります。昨夜の雨がお日様に照らされ、少し蒸し暑い朝。
ここは会社の北側。農業用水沿い。向こうに見える灯りが、ひまわり乳業南国工場の物流センターだ。
で、この農業用水の上のオブジェは、土電安芸線、鉄橋の痕跡。暗いのでわかりにくいですが、以前上から撮影したのは、これ。こんな感じ。旧土電安芸線お線路は、土佐くろしお鉄道の線路の少し北を走っていたのでした。
この痕跡の脇には太陽光発電のパネルが設置され、前回みたいなアングルで撮影できんなっちょりました。時代の変遷。
昨日、土佐電鉄の話を書きました。今日もやりましょう。
今まで、土電安芸線のことは幾度か書いてきました。が、少し正確に欠けるところがありましたので、今朝は整理してみます。
そもそも。
安芸線は、土佐電鉄とは関係なかったのである。ご存知でしたでしょうか。
最初は「高知鉄道」。高知の財界人たちが集い、つくった鉄道会社。その経営には紆余曲折、様々な変遷がありますが、その話は置いといて。
とにかく、高知県東部への鉄道敷設は、東部住民の悲願であった。大正9年に高知鉄道設立総会が開かれ、不況による混乱を経た後、大正13年12月に後免〜手結が開通したんでありますね。走っていたのは蒸気機関車。客車はマッチ箱のようなもので、有蓋貨車ももちろん連結しちょりました。
土電後免線は、明治44年という早い時期に後免東町まで開通しちょりました。
大正13年に開業した高知鉄道の後免駅は、現在の後免町駅なので、後免東町との間、300mは徒歩だったそうです。翌年になって、土電の電車は後免駅、つまり現在の後免町駅まで延伸し、高知鉄道との乗り換えが便利になったのでありました。しかし、乗り入れはしちょりません。
ともかく、この写真の鉄橋は、大正13年12月に供用開始になったものでありましょう。
大正14年になると、国鉄(鉄道省)の高知〜土佐山田が開通し、後免駅ができる。翌年の大正15年になって、高知鉄道が後免駅(現後免町駅)から延伸して後免駅(現後免駅)と繋がり、高知鉄道の後免駅は後免町駅に改称されたのでした。先にできたのは高知鉄道なのに、国の権力に屈したというところでしょうかね。知らんけど。
その後、かの、野村茂久馬翁らの尽力で手結〜安芸が開通したのは昭和5年のこと。安芸、悲願の鉄道だ。同時に、安芸から省線後免駅を経由して高知駅まで乗り入れを開始。現在、土佐くろしお鉄道が高知駅まで乗り入れているのと同じことを、昭和5年に始めちょったんだ。
戦争が始まる昭和16年、高知鉄道と土佐電気などが企業統合し、土佐交通に。そして土佐電気鉄道に。
そして昭和24年、安芸線の全線が電化。その際に建てられた記念碑は、以前にもご紹介しました。
昭和29年に、後免町駅で、路面電車から安芸線への乗り入れが開始。それからの歴史はご承知の通りです。
それは、僕が中学生の頃、安芸線が廃止されるまで続いた風景。