戦争遺跡は残した〔4935〕2016/10/19
2016年10月19日(水)薄曇り
こないだ、10月4日のにっこりで、いつもの野市、上岡八幡宮さんの戦争遺跡について書きました。参道の延長線上。畑の真ん中の、戦争遺跡。幾度も書きましたが、太平洋戦争末期、米軍機の爆撃によって破壊され、それを忘れないために、破壊されたままの姿で置かれてきた、鳥居の脚や笠木。
以前は、こんな感じでした。
嘉永3年に建てられたと思われる鳥居の、脚。その足元に放置された笠木と、貫。
ここに高速道路ができると知ったのは今年の5月2日でした。赤い旗が建設予定地に立てられていた。その際、この貴重な戦争遺跡が高速道路のルート上にあることを知り、当然のことながら、撤去されてしまうのか、と残念に思ったことでした。
しかし。
その後、工事が進んでも進んでも撤去されない。これは、地元の皆さんの思いが伝わって保存されることになったのか。
10月4日に紹介した写真では、4本の戦争遺跡が木枠で囲まれていました。何の工事だろう。移設するのだろうか、などと色んな想像をしておりました。
そして、この風景。
そう。秋祭りを間近にした上岡八幡宮さんの参道の延長線上。いつもの年と同じように、八幡様の幟が立てられました。
4本の戦争遺跡の足元は整地され、以前は草むらにそのまま放置されていた笠木、貫は、新しくできた水路の上に、キチンと置かれている。
で、東西の、高速道路工事を見ると。
ん?
高速道路の高架は、ここを通らないようだ。僅かにずれている。高速道路高架の真下からは少しだけずれて、この鳥居の脚が立っているようです。そうか。
鳥居の脚の基礎部分は、新しくなっています。これは、元々の場所から少しだけ移動し、高架の真下にならないようにしたのではないか。そうかも知れrない。
そのようにして、戦争遺跡にして、古くからの八幡様の鳥居と幟立の柱は、残されることになったのか。
このようにすることになった経緯には、地元の皆さんの、八幡様や戦争遺跡に対する思いが強く強く働いたことは、想像に難くありません。頭が下がる。破壊された鳥居を、破壊されたままの姿で残す。それも、高速道路の工事に引っかからないよう、少し移動までさせて。凄まじいまでの意思の力を感じるではありませんか。
高架の下だと、このように幟を立てることもできませんでしたが、こうやって、今年も、来年のお祭りにも、堂々と幟が立てられ、地域の八幡様は、地域で大切に大切に盛り立てていかれることでしょう。インフラ整備と宗教施設。この有り様は、あちこちで摩擦を引き起こしますが、ここでの対処の仕方は模範となるものだと思います。
思い出すのは、安芸の向こうの「梛の木」か。
国道工事で撤去されることになっていた、古い伝説に彩られたご神木、梛の木を、地元の皆さんの強い強い要望で残すことになり、今も二股の国道になっている。
そこには説明板があり、表題は「梛の木は残した」。
「樅の木は残った」では、樅の木は「残った」のだが、その梛の木は、「残した」のである。そのことを、誇りをもって文章にし、説明板に書いた。
この、キレイになった戦争遺跡にも、戦争で破壊されたことや、高速道路工事でも撤去されずに「残した」経緯を、説明板に書いて残してもらいたい。ここを訪れる誰もが、地域の人々の熱い想いに触れることができるように。