路面電車の歴史と高知の歴史〔4933〕2016/10/17
2016年10月17日(月)良いお天気
明け方まで、降ってました。家を出た4時前頃にはほとんど雨もあがっておりましたので、自転車で与力町へ。
途中、潮江橋で、この写真を撮影したりしているうちにまた、結構降り出してきたので、慌てました。しかし、夜明けとともに青空が広がり、良いお天気の月曜日。
写真は潮江橋南詰から撮影した桟橋通り。一昨日、鉄道輸送の話をしたので、今朝もその続き。
日本で最初に路面電車が走ったのは、ご承知の通り京都だ。明治28年。琵琶湖疏水を利用して蹴上の水力発電所がつくられ、その電力で走った、という話は以前にも書きました。
その後、明治31年には名古屋、明治33年には東京で路面電車が走るようになり、広がりをみせてゆく。
高知に路面電車が走ったのは、一昨日も書いたように明治37年5月。もちろん四国で最初の路面電車。進取の気性、土佐人の面目躍如でしょうかね。
明治28年、京都電気鉄道が開業した年、京都で内国勧業博覧会が開催されちょります。その博覧会を見に行った人々の中に、伊野町で製紙業を手がける旦那衆が居たそう。で、京都の電車を見て、自分たちの製紙の製品や原料を電車で運べたら素晴らしい、と思いついたのだそうです。
当時は、陸送は馬車や人力に頼っていた時代。一昨日も書いたように、土讃線の開通は20年以上後のことで、まだまだ先の話。
そんな訳で、高知の財界人らが協力し、高知に路面電車を走らせ、桟橋からの阪神航路につなごう、と行動を始めたのでありました。
そして、明治37年に梅ノ辻〜桟橋と、堀詰〜乗出が開業、明治39年には堀詰と梅ノ辻が、鏡川を渡ってつながる。で、明治41年、伊野線が全通して、念願叶ったのである。このスピード感、たまりませんな。
電車の客車の後ろに、天蓋付きの貨車を連結して荷物を運ぶ。そんなスタイルであったにかありません。
高知の旭地区に製紙工場が多いのは、電車で製品や原料を輸送していた名残り。朝倉から伊野でも、線路沿いに製紙工場や製紙関係の工場が今も並ぶのは、そんな理由なんですな。
そうそう。貨物輸送だけではなくて、もちろん、人も運んだ。
浦戸湾には巡航船が航行。浦戸や種崎、御畳瀬などから人を乗せた巡航船が桟橋へやってくる。桟橋から電車に乗り、高知のお街へと向かう。
僕の母は、戦争の頃、浦戸の家から巡航船で桟橋へ向かい、電車に乗って女学校へ通っていたと言います。
明治44年、現在の知寄町2丁目から南へ分岐する新地線が開業。
稲荷新地へ電車で行けるようになった。で、稲荷新地にも巡航船が接岸するようになったので、高知市内へは、稲荷新地で降りて新地線、そして後免線に乗り換える、という手もありましたが、やはり、メインは桟橋を利用するルートであったようです。
朝、4時の桟橋通。1台の車も通らない、静かな青信号。
高知の潮江地区は、ここに電車が通ったことにより、街が始まった。電車の軌道沿いに道路ができ、学校ができ、家な立ち並んでいった。そんな歴史が、この風景の中に流れている。