古池や〔4893〕2016/09/07
2016年9月7日(水)晴れ!
今朝は晴れ。湿度が高く、蒸し暑い朝。台風13号が来よりますので、高知も、夕刻から荒れた天気になるにかありません。気を付けましょう。
さて。
古い絵図を見る、というのは、なかなか楽しい。こないだ、「寛文己酉高知絵図」という、寛文九年(1669年)に描かれたと思われる絵図の天神橋は、現在地とは違う、というのに気付いた話を書きました。
高知の城下の絵図。有名なのは「正保土佐国絵図」で、正保元年(1644年)に、土佐藩が作成して幕府に提出したもの。それとかなり酷似した絵図に「慶安五年高知廓中絵図」というのが、ある。どういった経緯で描かれたものか、描かれた正確な年号はいつなのか、等々、まだ未解明な部分のある、絵図。慶安五年というと、1651年。
慶安五年図と正保元年図の違い。
ひとつ、際立った違いがありました。古池。
山内一豊による城下町建設では、多くの城郭がそうであるように、内堀、外堀と土塁が整備されている。内堀は、もちろん、現在の高知城のお堀だ。では外堀は。
北は大川。現在の江ノ口川。南は潮江川。現在の鏡川。自然の河川を外堀にするのは、よくあること。で、東は、現在の新堀川。
そして、西側の外堀。それは、今の升形商店街のところから南へ伸びる、堀でした。
高知の城下の、上級武士が住むエリア、郭中は、以上の外堀に囲まれた地域でありました。現在の行政区で言えば「高知街(こうちまち)」。
で、その西側の外堀。本町の通りと、中島町の通りに橋が架かっていた。
中島町の通りの橋は土佐藩馬廻役の、金子さんという方の屋敷があったので、いつしか金子橋と呼ばれるようになった。
今日は、中島町と電車通り(本町)の間、水通町から、その外堀の痕跡を撮影してみました。この、小さな水路。これが、かつてはもっと広い、高知城下の外堀でありました。
で、今日のテーマは古い絵図。上記の、慶安五年図。それを見ると、この西側の外堀、自然の河川と南北に長い池として描かれちょります。
そう。この堀は、藩政期初期には、自然の小川と、池であった。
右手の道路の向こうまで広がる池が、ここにあったのか。その池には「古池」という名前がつけられております。ここにあったのは、古池。
以前にも書きました。高知の城下は水の都。縦横に水が流れる都市でありました。堀川や、新堀川、松渕川など。
おそらく。その堀は、城下町建設以前、小さな小川が流れていたり湿地帯であった地形を利用して、構築されたもの。
慶安五年図に描かれている、この場所の古池と、江ノ口川から古池に流れ込む小川も、その後、きちんとしたお堀として整備され、郭中を守ることとなった。
そんな歴史が、慶安五年図からわかってきます。
で、本題。正保絵図との際立った違い。
正保絵図(1644年)を見ると、西側の堀は、きちんとした直線の堀として、描かれている。ところが、慶安五年図(1651年)では、そこは、古池と小川。後の時代の方が自然の池と小川、というのは、明らかにおかしい。
たぶん。おそらく。
正保絵図は幕府に提出する資料。こんな城郭、城下町にします、という図。多分に、計画図という側面があったのでありましょう。慶安五年時は、その計画図に対して、実際の姿に近いものを描いたのではないか。そんなことやと思います。
ともあれ。
17世紀頃、ここには古池があった。この小さな水路は、外堀の痕跡であり、古池の痕跡でもある。