知寄町の風景〔4892〕2016/09/06
2016年9月6日(火)晴れたり曇ったり
台風12号は過ぎ去り、晴れ間が戻ってきました。昨日は一日、降ったりやんだり。不安定なお天気で、時折雷もゴロゴロ。
そんな中、久々に。本当に久々に、会社から走って帰りました。いや〜、ナマっちゅう。思いの外。
このにっこりをお読みの方は薄々気付いているだろう。このところ、全然走れてない。走って、ない。もちろん夏の暑さ、というのもありました。宴会続き、というのも、ありました。土日に仕事や用事がたくさん、というのも、ありました。それにしても、少しぐらい時間を作って走ることくらいはできたはず。怠け者でした、僕は怠け者。反省反省。
なんせ、昨日は、10kmちょっと走ったところで膝にきてしもうたんですね。怠けて増えた体重を支えきれないのか、この膝は。そんな訳で、途中から電車に乗って帰ってきてしまいました。また、少しづつ、膝が痛くならない距離を伸ばしていかんといけません。体重も減らしてね。ここに宣言しよう。僕は、痩せます。ホントです。そんなつもりです。まあ、少しは痩せましょう。痩せるような、気がする。少しでも良いから・・・
さて。
写真は、宝永町の歩道橋の上から撮影した知寄町。
昨日、途中から乗った電車を降りたのは、この眼下の電停。知寄町1丁目。その向こうの信号のところにも電停が見える。知寄町2丁目。とっと向こうには葛島橋の緑色のトラスが見えております。
今朝は宝永町から空港バスに乗って出勤なので、ここから撮影してみました。
その、知寄町2丁目。あの電停から南に折れる支線があり、新地線と呼ばれていた、という話は以前にも書きました。新地線。
明治44年に、稲荷新地と、あの知寄町2丁目を結ぶ路線が開業し、戦争が激しくなる昭和19年まで営業しておりました。知寄町2丁目は、最初は「新地通」という電停で、その後「海岸通」となり、「若松町通」と名称が変遷しております。
で、稲荷新地の、海岸沿いの終点は「新地」。そして「海岸通終点」となり、「若松町」に。
稲荷新地の、新地としての賑わい華やかなりし頃は「新地」。稲荷新地は、明治維新後、すぐにできた歓楽街。
いつものように、昭和8年の市街図を見てみよう。これだ。
この地図にも、はっきりと、新地線の線路が描かれております。その線路は、稲荷新地の田んぼの中を走って岸壁へ。
この、堀川河口部の北岸は、明治になるや否や、高知の表玄関となっていったのであります。as soon as。
で、色んな船が発着するようになるし、船による交通の便はよろしい。と、いう訳で、その船着場近くに料亭や芝居小屋などができるようになり、歓楽街として発展した。突然できた歓楽街なので、新地。海沿いの土地に堤を築き、新しくできた土地なので、新地。
この地図を見ると、稲荷新地と呼ばれる歓楽街は、堀川河口北岸の堤防沿いの部分のみに形成されております。北側には、広がる水田。そう、縦二本線の下に、横に一本線がある地図記号は、乾田ではなくて水田。かなり水の多い田んぼであったと推察できます。
堤防を築くことによって、海水と遮断し、水田としてできるようになった土地だ。昭和8年の頃は、まだ、大きな池のようなものも見えます。湿地帯であった、稲荷新地の北側。
この地図から想像するに、ここから見る風景も、電車通りの左右は、水田。水田の中を走る電車軌道、という風情でありました。
今は建物がびっしりと建ち、水田地帯であったとは、想像もできない知寄町。