播磨屋と櫃屋とはりまや橋と純信とお馬〔4881〕2016/08/26
2016年8月26日(金)晴れ!
良いお天気。今日も暑いでしょう。善き哉善き哉。
で、今日は業界の寄り合いで、東京。一便の飛行機に乗るべく、はりまや橋から空港バスに乗りました。写真は、その際に撮影したはりまや橋からのはりまや橋の写真。
現在のはりまや橋は、電車通りの、橋。西側にある、観光客さんが記念撮影したりしゆう橋は、真っ赤な偽物で、まあ、写真的にはそれでもかまんがかも知れませんが、あそこで記念撮影をする観光客さんを見る度に、後ろめたい気分になるのは僕だけだろうか。
この写真は、本物のはりまや橋の東側から、東の方向を撮影したもの。目の前にある、緑色の欄干。これは、明治41年に架けられた、本物のはりまや橋の欄干。どっちかと言えば、こちらで記念撮影するのが、正しい。
まあ、どちらにしても、下を流れていた堀川が埋め立てられ、川でなくなった時点で、全部偽物になったとも、言えるのであるが・・・
ともかく。
右手が デンテツターミナルビル。
こないだうちから書いておりますように、はりまや橋は、藩政期初期、豪商播磨屋さんと豪商櫃屋さんとの間に架けられた私設の橋でありました。
長宗我部元親が浦戸城を築く前から、浦戸にやって来た一向宗門徒、櫃屋さん。同じく、浦戸界隈にやって来た一向宗門徒の、播磨屋さん。
調べてみました。播磨屋さんが住んだのは、瀬戸村という話もある。現在の瀬戸。
山内氏が入国し、大高坂山に城を築いて城下町建設を始める。で、浦戸城下の、水夫や海運関係の住民を移住させてきて、住まわせたのが浦戸町。
この写真で言えば、右手。堀川の南側が、浦戸町。なので、浦戸の住民であった櫃屋さんは、この南側にあったのか。
浦戸町と、堀川を挟んだ対岸、北側は種崎町。種崎の住民が移って来たから。
浦戸と種崎が、浦戸湾口を挟むように立地しているのと同じく、浦戸町と種崎町は、堀川を挟んで立地する。
播磨屋さんが土佐にやって来て住んだのは、浦戸の近くではあるが浦戸ではなくて、瀬戸村界隈だったとも言う。
瀬戸村から移住してきた播磨屋さん、堀川北岸の、種崎町に居住することになったのかな。この左手。
いや、全部、想像なので、播磨屋さんと櫃屋さんの位置関係すら、間違うちゅうかも知れません。まあ、素人の妄想ですき、こらえてください。
妄想ついでに言えば、播磨屋宗徳さん、慶安元年(1648年)に亡くなっちょりますが、その年、谷時中さんという土佐南学の祖の一人から、瀬戸村の山林を購入しております。元々、ゆかりのあった瀬戸村の山林だったから、かも知れません。違うかも知れません。
ここにはペギー葉山さんの、「南国土佐を後にして」の歌碑。
高知県人で編成された「鯨部隊」と呼ばれた部隊の兵隊さんが、遠く離れた戦地で、故郷土佐を偲んでつくり歌ったという歌が元になっている、「南国土佐を後にして」。
その歌に歌われる「よさこい節」。
よさこい節が、そしてはりまや橋が、なんで有名になったのか。その、純信お馬の幕末大スキャンダル事件は、幾度も幾度も幾度も、このにっこりで書いてきましたが、地元の高知県人ですら、知らない方も多い。ましてや、観光客さんをや。
だから、意味もわからず、あんなレプリカ橋で記念撮影をしているんだね。
なかなか面白いストーリーで、後日談も実に豊富なので、その物語と一緒に、今一度はりまや橋をブラッシュアップしてはいかがか。
もちろん、橋の下には堀川を再び流してね。
ちなみに、お馬さんに簪を買うたのは、純信の若い弟子、慶全くんで、買うたのは、はりまや橋の袂の小間物屋さん。その場所は、この写真の左手。これには写ってない、酒屋さんの場所。
などと言うと、臨場感、でてくるでしょ?
よさこい節に歌われた純信お馬スキャンダル事件、映画化かドラマ化、されんでしょうかね。
ああ。純信役は、誰だ。美少女お馬は。慶全くんは誰が演じるんだ。妄想が、また、暴走する。