国技館の移転と市場の移転〔4882〕2016/08/27
2016年8月27日(土)薄曇り
今日は東京。昨日やって来まして、業界の寄り合いが夜まで。で、両国に泊まっちょりました。いや〜、東京も暑・・・くない。そう。今朝は薄曇りで、心なしか涼しい風も吹き、そんなに暑くない、東京だ。これは意外意外。
とは言え、湿度は高めで、早朝ランでは汗もつれになりましたが。
今朝のランは、5時にホテルを出発。まずは両国界隈探索。なんと言うても歴史の宝庫ですきんね。最初は回向院。両国橋の東。
回向院は、10万人以上の犠牲者を出したという明暦3年(1657年)の明暦の大火の後、その大火の無縁仏を弔う塚が将軍によって建てられたのに、始まる。
藩政期初期、隅田川では、千住大橋以外の架橋は認められちょりませんでした。高知の城下で、潮江川に天神橋以外の架橋が禁じられちょったのと一緒だね。
しかし、明暦の大火で、隅田川を渡れなかったために多くの犠牲者が出たことから方針変更。両国橋を架けることにした訳だ。
お陰で、隅田川の東岸、本所や深川が、大いに発展することになりました。
回向院の門前は、まあ、賑やかになりました。
そんなこんなの元禄15年12月14日。回向院のしゅっと裏手、本所松坂町の吉良上野介邸に赤穂浪士が討ち入ったのはご承知の通り。今も吉良邸であった場所の一部が公園として残されちょります。
回向院の門前は賑わい、江戸時代後期になると、回向院の境内で勧進相撲の定場所も開催されるように、なる。この相撲が大人気になるんですな。これが大相撲につながっていく訳だ。
明治になり、明治42年、その回向院境内に、ドーム型鉄骨洋風建築の「国技館」が完成。歴史ある場所に、相撲が戻ってきたのでありました。
現在、回向院横の大きなビルの中庭、かつて土俵があったであろう場所に、円形の印が描かれちょります。初代国技館土俵の痕跡か。粋なことをするではないか。感心感心。
でもこの回向院の国技館、不運が続くんです。開館して8年後の大正6年、回向院の火災で全焼。なんとか大正9年に再建し、再び開館式を行うも、3年後、大正12年の関東大震災にて、またまた焼失。ああ。まあ、頑張って、翌年には再建しちょりますが。
そして、戦争。東京大空襲で被災し、大きな被害を受け、終戦。米軍に接収され、基本的に大相撲の興行は行われなくなった。
蔵前国技館で大相撲が行われるようになるのが、昭和29年。僕たちが子どもの頃に夢中になったのは、蔵前国技館で繰り広げられる相撲の数々だった。
で、昭和60年、国技館が両国に戻ってくる。現在の国技館。もちろん場所は、回向院ではなくて、北側の広い広い敷地。国鉄の貨物駅跡なんですってね。なるほど。
話を回向院から進めましょう。
今朝は、回向院を東進、三つ目通りという道を南下して一気に豊洲へ。
すごい。豊洲。以前とは全然違う風景になってました。大きなビルや巨大商業施設がどんどんどんどん建設中。こりゃあ、近年の再開発では、最大規模かも知れません。東京、恐るべし。
で、昨年3月13日のにっこりでご紹介した、建設中の新しい中央卸売市場。2016年11月、築地から移転ということで工事が進むも、実際はかなり遅れるんではないか、てな予想を書いておりました。
しかし。
今日、同じ場所、ゆりかもめの「市場前」駅から撮影してみました。新しい建物には「11月7日 豊洲市場開場!」の、横断幕。そうか。予定通り、11月には移転するのか。
しかし、間に合うんでしょうかね。ものすごい引っ越しになりそうですが、大丈夫なんでしょうかね。で、ネットを眺めてみると、小池百合子新都知事が、「(豊洲新市場が)2年間という(調査)期間を待たずして開業してしまうことに対して、私は大変大きな疑問を持っている。(豊洲新市場の施設は)言ってみればどんがらなわけですよ。それに何千億円もかけるんですか?って」という発言しちゅうのを発見。
さて。どうなることやら。
国技館の移転とは、規模が違いますきんね。
そんな訳で、豊洲から、現在の中央卸売市場、築地市場まで走り、ホルモン丼を食べて帰ってきました。
良い朝です。