西浦戸町に浦戸から移住してきた櫃屋さん〔4880〕2016/08/25
2016年8月25日(木)曇り
曇っちょりますが、暑い。昨夜も蒸せました。湿度が高いですきんね。朝から汗が噴き出しております。
さてさて。
ここは、今朝の浦戸町。現在の町名で言うと南はりまや町。この右手の「1×1=1」のお店。高知県人では知らない人のいない、アイスクリンの工場だ。
高知の道端には、アイスクリンのお店がたくさん出てますが、その中でも一番有名なのが「1×1=1」。確か、浦戸町ナントカ協同組合というようなのが正式名称やったような記憶がありますが、今はどうなんでしょう。この建物には「1×1=1」としか書かれちょらんので、わかりません。
で、浦戸町。関ヶ原が終わり、土佐へ山内氏が入国してくる。当時の長宗我部の本拠は浦戸城だったので、山内氏が入国して入った城も、浦戸城。10年前(もう、そんなになるんだ!)の大河ドラマ「功名が辻」で、上川隆也の山内一豊と、仲間由紀恵演じる妻が、浦戸城の天守から太平洋を眺めていたシーンがあったようななかったような。
まあ、とにかく浦戸城へ入った後、大高坂山に築城して、そこに引っ越すことになったのはご承知の通り。で、城下町を建設する訳だが、その際、土佐の各所の町の人々を高知の城下に移住させ、まとまった町を形成させた。
浦戸城の城下町に住んでいた人々も、高知の城下へ移住させられ、そこが浦戸町という町になった。
ここまでは基礎知識。
一昨日、はりまや橋の由来となった播磨屋、櫃屋のお話を書きました。双方とも一向宗門徒で、浦戸に住み着いた、という話。天正十六年(1588年)には、浦戸に櫃屋さんが住んでいたという証拠がある、と。
ところが、色々調べてみますと、山本泰三さんの「土佐の墓」という本には、櫃屋さんは、根来の乱を避けて土佐へ来て、五台山の櫃谷に住み、長宗我部に使えた、と書かれちゅうと言います。で、山内氏入国後、西浦戸町へ移った、と。う〜ん。
たぶん。
1588年には、浦戸に住んでいた、というのが正解やと思う。1588年と言うと、長宗我部元親が、岡豊城から大高坂山へ本拠を移した年だ。元親が浦戸城に移ってくるのが天正十九年(1591年)末。元親が浦戸へ来る前から、浦戸には、一向宗門徒など、多くの商人たちが住み着いていた様子が見て取れます。
で、山内氏入国、高知の城下町建設に伴い、浦戸の、他の住人たちと一緒に、ここ、浦戸町に移住。
一昨日ご紹介した、現在のはりまや橋交差点界隈は、当時の西浦戸町か。
櫃屋さんは、浦戸から、浦戸の人々と一緒に移住してきて浦戸町を形成。その浦戸町の北側、堀川に架けた私設の橋が、播磨屋橋。播磨屋橋という名称が有名になり、播磨屋町という町名ができ、西浦戸町は南播磨屋町に、なった。そんな感じかな。
現代では、浦戸町といえば「1×1=1」。