鷹匠町考〔4851〕2016/07/27
2017年7月27日(水)薄曇り
なんか、薄曇りの天気が多いですな。このところ、キレイに晴れ上がらん。昨日、業界の会合で、東京からお客様をお迎えしちょったのですが、東京、まだ梅雨明けしちょらんのですってね。知りませんでした。で、このところ、肌寒いようなお天気なんだとか。それに比べたら、まあ、暑いだけマシかも知れません。
それにしても。
高知では稲刈り真っ盛りで、会社の横の田んぼも稲刈りが終わっちゅうと言うのに、東京ではまだ梅雨明けしてない。なんか、不思議。
さて。
写真は、今朝4時前の鏡川。天神橋の上から、上流方向を撮影してみました。
右手川沿いは、唐人町。秀吉の朝鮮出兵で出陣した長宗我部元親が、朝鮮から連行してきた一族郎等の子孫が、藩政期になって、豆腐商いの特権を与えられて住んだのが、唐人町。
以前にも書きましたが、川沿いに住まわせることで、土手の維持管理もやらせていたのではないか、と、僕は想像します。藩政期は、特権とインフラ整備をうまく組み合わせる社会であったので。
文化元年(1804年)の「鏡川絵図」というのを見ると、西はその向こうの明るい界隈から、東は現在の九反田橋界隈まで、川沿いにビッシリと平家の家が並んでいる。そんな風景。
昨日の会合があったのは、あの明るい場所に屹立する三翠園さん。幕末頃、藩主山内豊範さんが、南御屋敷の東に隣接する7人の家臣の屋敷を召し上げて別邸をつくりました。そこが、現在の三翠園さん。
そして、その向こう、つまり西側が、鷹匠町。
藩主の鷹部屋があり、その近所に数人の鷹匠が住んでおったので、鷹匠町。鷹師町とも。
今の鷹匠町と、ちょっと違いますよね。今、鷹匠町と言えば、もうちょっと東、三翠園の東側を思い浮かべてしまいます。
どうやら、藩政期の鷹匠町は、今、我々が普通に鷹匠町と呼ぶ界隈ではなかったらしい。
三翠園さんの西側、鷹匠公園の、その西。こうちまち保育園のある辺り。知事官舎からこうちまち保育園への東向き一方通行と、その南の、西向きの一方通行の通り。この二つの通りが、鷹匠町だ。
その二つの通りは、そんなに離れてないですよね。なんか不思議な、狭い間隔。そう。その、東向きの一方通行と西向きの一方通行に挟まれた場所は、お堀と堤だったのであります。
鷹匠町の南には「南の馬場」という馬場が、あった。
現在の、山内神社とかのある堤防の北側。西向き一方通行道路の南側ですな。
鷹匠公園の前には、そこが山内容堂侯邸跡であることを伝える碑があります。そう。幕末頃、そこは山内容堂さんちでした。
それ以前、18世紀頃の城下絵図を見てみると、その場所は御鷹部屋。19世紀になると、山内家一族の屋敷となり、南御屋敷となって、容堂侯が住むように、なった。
明治になると、山内男爵邸。東側の三翠園の場所は、山内侯爵邸なので、そっちが本家でしょう。分家の男爵家の御屋敷。
で、戦後、鷹匠公園になったのでありました。鷹匠公園は、まさしく、鷹匠は鷹を飼育していた、その場所にあるんですな。
鷹匠町は、知事官舎のある通りと、その南の通り。そこだけ。現在の鷹匠町二丁目。
三翠園や、その東側の鷹匠町一丁目は、正確には、鷹匠町ではなかったのであります。ご存知でしたか?
まあ、朝からどうでもかまん話では、あります。が、勉強になりました。
あの一方通行に南北挟まれた部分は、お堀の痕跡だったのか。