浜口雄幸、BSプレミアムに登場〔4850〕2016/07/26
2016年7月26日(火)晴れ
昨日は、高知県の西端、大月町へ行っちょりました。大月町には、牧草を主体とした酪農経営を営む意欲的な酪農家さんがいらっしゃいます。ずいぶんと戸数は減りました。しかし、今も営々と、大月の大自然の中で、素晴らしい酪農経営をされている姿。頭が下がります。
また、皆さん、人間として大変素晴らしい。人が良い、と申しましょうか。
今回は撮影かれこれでお邪魔しちょったんですが、機嫌よく、長い時間付き合って頂きました。本当にありがとうございました。
それにしても、近うなったもんだ。大月町。
南国の会社から3時間。まあ、3時間はかかりますが、昔は5時間ばあかかりよりましたきんね。3時間なら、ちょっと思い立って行って来れるくらいの場所。良いところです。大月町。
さて。
写真は、今朝、4時過ぎの南宝永町。以前にもご紹介した日切地蔵尊。一晩中、裸電球の灯りがともる、日切地蔵さん。
この碑が、「濱口雄幸解願之碑」。
高知出身のライオン宰相、濱口雄幸さんが、首相在任中に、右翼の凶弾によって東京駅で重傷を負ったのが、昭和5年11月14日。で、多くの人々が、回復を願う。高知の地元でも、回復を願って願掛けが行われたりしました。その願いが叶い、翌年1月には退院。3月には議会に出席して、登壇。
この「解願碑」は、その、退院回復したのを喜んだ高知の人々によって、建てられました。
しかし。
無理をして議会に出席したのが悪かったのでしょう。容体が悪化し、4月に再入院、8月に亡くなった、濱口首相。
彼は、日本の将来について、明確なビジョンを持っていた。第一次世界大戦後の戦争は総力戦になり、資源力を含めた国の総合力の戦いになる。そうなると、日本は、アメリカなどを相手に戦争するのは、無理だ。国際協調路線で、国益を守る。軍縮も、そんな観点から推進した訳だが、軍部や、軍部に煽られたマスコミ、煽られた大衆からは、日本の国益を損なう非国民のように、言われる。
しかし、矜持の人、濱口雄幸は屈せず、凶弾に倒れてしまう。
濱口を追い込んだ野党政友会も、結局、犬養毅が凶弾に倒れ、政党政治は瓦解していく。
もし、濱口が生きていたら。
日本の歴史も変わっていたかも知れない。
こないだ、7月3日に、五台山の濱口雄幸生家へたつくって行った際、そこを管理されゆうおばちゃんから、7月28日の夜8時から、NHKで、濱口雄幸さんの番組をやるにかあらん、という話を聞きました。ドローンを使ったロケも、生家で行われたそうです。
近づいてきたので、番組表を見てみましたら、これですね。
BSプレミアムだ。
7月28日(木)午後8時〜9時。
「ライオン宰相が夢見た平和〜軍縮に挑んだ男 浜口雄幸〜」。
番組宣伝の文章は、こう。以下転載。
昭和初期、首相として信念を貫き、ついには凶弾がもとで亡くなった悲劇の政治家・浜口雄幸。浜口が政治生命をかけて臨んだのが、昭和5年のロンドン海軍軍 縮会議だった。軍縮によって国際協調路線を歩み、軍事費を削って生み出した予算を社会や国民生活の向上にむけようとした浜口。その浜口に日本海軍が大反対 する。米英に妥協し軍縮すれば国防に責任が持てなくなるというのだ。日本の針路を左右する選択、果たして浜口の決断は?
これは見逃せない。