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鷹匠町考2〔4852〕2016/07/28

鷹匠町考2

2016年7月28日(木)晴れ

晴れちょりますが、雲も、多い。なかなか夏空満開、という訳には参らない、今年の日本列島。

昨日、鷹匠町のことを書きました
藩政期に鷹匠町と呼ばれておったのは、現在の鷹匠町二丁目、つまり、三翠園さんの西の、鷹匠公園から西側。知事官舎やこうちまち保育園がある通りと、そのすぐ南の通りが鷹匠町。
その二つの通りの間には、お堀があった、という話。
では。
そのお堀は、いつ頃まであったのか、検証してみよう。検証に使うのは、いつもの、「描かれた高知市」。高知市史 絵図地図編。

そのお堀は、藩政期初期からずうっと存在するのだが、変化が見られるのが天保年間。
現在の鷹匠公園は、それまで「御鷹部屋」だったのが、山内姓の御屋敷に、なっちゅう。天保元年(1831年)の絵図。で、その西が少し埋め立てられて「御射場」。

その後の弘化年間の絵図では、更に西まで、お堀の半分ほどが埋め立てられちゅうように、見えますな。

幕末、明治維新の直前の慶應年間になると、更に埋め立ては西へ伸びて、小さい池が残るばかり。埋め立てられた場所には「南御屋敷御用地」と書かれている。鷹匠公園が「南御屋敷」になっちゅうので、その、なんらかの用途の用地として埋め立てられたのか。

で、明治。
明治11年の、河田小龍さんが描いた高知市街全図でも、慶應年間と同じく、西端に小さい池のようなものが、見えます。
明治30年の高知市街図でも同じですが、その市街図を見ると、その小さい池は、東の現鷹匠公園の北側と、小さな水路でつながっちゅう。
なるほど。

藩政期後期、埋め立てが進んでも、小さな水路は残されていたことが、これで判る。
そして。大正時代になると、完全に埋め立てられ、お堀は消滅。

いや、朝っぱらからとんでもなく細かいマニア話で申し訳ない。昨日から気になっちょったもんですきに。

ややこしいついでにもう一つ。この辺で読むのやめても良いですよ。たいした話ではないので。
現在の鷹匠町一丁目。三翠園さんから、天神橋の通りまで。中島町の南。今では、鷹匠町というと、その辺を思い浮かべてしまいますが、三翠園さんの敷地から東は八軒町。その南は、片町。
では、三翠園さんの敷地は、何町だったのか。
昨日も書いたように、幕末、7人の家臣の屋敷を召し上げて、山内家の別邸となった、その跡地が三翠園さん。
その7人の御屋敷があった町は、ひょっとして、そこも鷹匠町と呼ばれていたのか。
そうであるとするならば、現在、そこが鷹匠町一丁目であるのも、理解できる。東側の八軒町や片町が鷹匠町に組み込まれたのは、ちくと乱暴だと思いますが。

町名というのはデリケートですきんね。役人が、勝手な思いで線引きしたり名前を付けたりしたら、いけません。

で、今朝の写真は、今日のややこしい話とは全然関係ありません。
今朝の野市、上岡八幡宮さん。こないだ、突然改修工事が始まっちょった、という記事を書きました。工事は、日々、順調に進捗しております。写真が、今朝の姿。
どうやら、耐震補強工事にかありません。柱が新しい材木で補強されちょります。なるほど。


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